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人生の教科書

世界との「引っ掛かり」が必要

少し前の記事で現代社が「モチベーションの時代」であることに軽く触れた。

 

 
izunox.hatenablog.com

 


この世界はいつの時代も意欲の無い者には厳しいものだっただろうけど、モチベーションの有無以外の要素が均一化されつつある現代においては、モチベーションの有無がその人の「成功」にクリティカルな意味を持つ。

 その意味合いで僕は現代を「モチベーションの時代」と名付けた。

 この記事で書くのは「モチベーションの時代」に生きる中で僕が感じている虚無感が何に起因するものなのかについてだ。

 その説明の中で、僕が二十数年間生きるなかで構築してきた世界理解みたいなものも紹介できればと思う。

 

僕は大学に入学して以降ことあるごとに虚無感を抱くようになった。

 最初はその感情が虚無感と呼ばれるものだとは分からなかったし、今も確信はないけど、「胸の中が空っぽ」という表現がシックリくるから、これが虚無感なんだろうなと思っている。

 この感情を持ち始めたのは大学に入学してすぐの頃だった。

 受験が終わり、いわいる燃え尽き症候群になっていたのだろう。

講義を受けたりバイトをしたり課外活動をしたりしても、心の中が「空っぽ」だった。

 それは今も変わらないし、ここ数年でその空虚さはどんどんひどくなっている。

 

そして自分の虚無感の原因をいろいろ考えてみて、何かしらの「引っ掛かり」が欠けている人は空虚感に襲われるのだろうなという考えに至った。

 

「引っ掛かり」というのは「強制力」と言ってもいいと思うし「強い意志」と言ってもいいかもしれない。とにかくこの世界において人々に進む方向と推進力を与えるものを「引っ掛かり」と呼びたい。

 

 なぜこの「引っ掛かり」が必要なのかと言うと、それはこの世界がある意味「のっぺらぼう」になっていて、何らかのきっかけや指針が無いと人はどこに進んでいいか分からないしどこかへ進んでいこうという意欲もわかないからだ。

 

「世界がのっぺらぼうである」とは、つまり万人が認める究極の正しさ・善さが無いということだ。究極的な「生きる意味」を求めてもこの世界にはそのようなものは何処にも置いてはいない。

 

 あくまでこの世界は無色透明でのっぺりした世界だ。

 

 その世界に起伏を見出してどこかに「ゴール」を設定できはするけど、かといってそれは「究極の」ゴールではなくて、現在生きている多くの人が目指しているゴールか自分が勝手に目指しているゴールかのどちらかだろう。

 

 そして社会が規定したゴールであったとしても、自分が決めたゴールであったとしても、人々はそのゴールにたどり着いてなお「だから何なんだ」と問うことができてしまう。

 

現代思想みたいなものに僕は特別詳しいわけではないから詳しいことは分からないけど、近代的な科学観と自由主義の浸透が人々を「自由」にした一方で人々から精神的な拠り所を奪ったということはある程度確かなことだと思っている。

 

 近代的な科学観いうのは端的にいうと科学万能主義とでも言えばいい考え方で、自然はいつかは人間にとって究めつくされるだろうし、少なくともそれまでには自然はコントロール可能なものになっているだという観測がこの主義主張には含まれている。

 

 近代的な科学観は現代人の多くの人が無意識に信仰している宗教のようなもので、結果的に現代を生きる人は素朴に「神」や「あの世」や「運命」の存在を信じることができなくなっている。

 

 近代的な科学観が僕らを自由にしたというのは、その科学観から生まれた種々の技術が人々にそれまでできなかったあらゆることを経験可能にしたという意味だ。

 

 一方で、近代的な科学観はそれまで人々が素朴に信じることができていた「神」や「あの世」や「運命」の存在に疑問を生じさせた。

 

 近世ヨーロッパで起こった戦争、革命の多くが宗教的な問題に(少なくとも建前だけでも)起因していることからもともと宗教的信仰が人々の人生観に深く影響を与えていたと言えよう。

 

 その点で多くの現代人にとっての「神」や「あの世」はお墓参り・初詣・クリスマスのような行事の中に形式的に残っているものであり、近代科学の発展以前のように素朴にその存在を信じることのできる対象ではなくなっていると言えるのではないだろうか。

 

 そして、「神」や「あの世」などの超越的な存在を素朴に信じられなくなった人々は、善悪の絶対的な基準を失ってしまい生きていく指針を失った。

 

上記の「(科学の発展が)人々から精神的な拠り所を奪った」が意味するのはこのような事態のことだ。僕はこんな風に現代という時代を捉えている。

 

 そして、このような「のっぺらぼう」な世界、つまり同時代の人々の間でさえ共通のゴールが共有されておらず、各人が設定するゴールがそれぞれ相対化されてしまった世界に生きている人々にはできるだけ大きな世界との「引っ掛かり」が必要になる。

 

 つるつるすべすべとした世界、「どれでもいいんじゃない?」「良いも悪いも人それぞれじゃん」が合言葉のこの時代において、人は妄執でも何でもいいから方向性を求める。

 

そんな時に世界との「引っ掛かり」があると便利だ。それが良いことかどうかは別にして、人に方向性を与えてくれる。

 

例えば、医者の両親に幼いころから医者になるように言われてきたAさんがいるとする。

 

 両親の思いが強ければ強いほどAさんは進路選択においてその「自分は医者になるべきだ」という世界との引っ掛かりを軸に物事を考えていくことになる。

 

 Aさんが親の意向に従い医学の道を志す(目標の受容)としても、またはAさんが親に反発し他の道に進む(反発)としても、その選択は「医学の道に進むべき」という所与(すでに与えられている)「引っ掛かり」への反応あってのことだ。

 

この例とは逆のパターンを考えてみたい。

 

Bさんは幼いころから両親に「好きに生きていいよ」といわれて育った。

 

Bさんは成績も平均、運動神経もずば抜けて良いわけではないが特に悪いというわけではない。特別モテるというわけでもなく、これといった趣味もない。

 

また、Bさんの家庭は特別裕福というわけではないにしてもBさんが大学進学・下宿をするくらいの余裕はある。

 

Aさんにあって、Bさんに欠けている物が僕の表現したい「世界との引っ掛かり」だ。

 

 Bさんが今後進路選択をする際に、顧慮する材料は(こんな風に単純化された世界においては)偏差値であったり、家の経済状況、本人の好みとなってくる。

 

そして実際Bさんには進路を決めるほど決定的な好みはなく、できるだけ「良い学校」に行きたいというような消極的な望みしかない。

 

 そのような状況においてBさんの進路選択を決定するのに役立ちそうなものは、せいぜい偏差値か、家の経済状況だろう。

 

 Bさんの家の経済状態いかんによっては、Bさんの進路選択が大幅に制限されるのは事実だ。

 

この点に関して言うと、 この想定にあるように家がそれなりの経済力を有している場合、進路選択は依然としてBさんの意志に委ねられることになる。

 

 もちろん経済的理由のために進路選択の幅が狭まることは本人の意志を最大限尊重できなくなるという点で望ましいことではない。

 

 しかし、その一方で経済的に恵まれているがゆえに「選択を何にも制限されないことからくる葛藤」が生まれやすくなる、とう点も確かにあると思われる。

 

 今日食べるものに困る人は余計な事を考えずに目の前の事に集中するしかない。

他方、物質的に恵まれている人にとっては、今日という一日を何をして過ごそうかということが悩みの種になっているかもしれない。

 

ここで書きたかったのは、煎じ詰めればこういった物質的・時間的、その他もろもろの余裕がもたらす逆説的な葛藤、悩みのことだ。

 

そして、すぐ上の例で言うと、食べ物に困っている人にとっての「世界との引っ掛かり」は「飢え」であることはすでに了解されていることと思う。

 

結局、僕の書きたかった事は物資的・時間的余裕が逆説的に人々を不自由にする、ということだろう。

 

おそらく物質的・時間的に余裕の無い人(過去の時代の人の目には現代人は物質的に恵まれているように映るだろう)はそれらに恵まれた人の生活はより良いものとして映るだろう。

 

しかし、実際には選択の幅が広がることからくる苦しみもあるのだと思う。

 

選択肢が増えることによる逆説的な苦しみの存在を分かったうえで、自らその選択の幅を広げる努力をする、そして自分の意志で選びとっていくことは僕は素晴らしいことだと思う。

 

その一方で、あえて選択の場から身を引く、つまりこれまで正しいとされてきたこと、親・教師が良いと言っていること、自分ができそうな範囲の事に集中すること、もまた大切なことと思う。

 

要は「引っ掛かり」の存在を意識してそれを利用するのか、それとも「引っ掛かり」の無い(少ない)世界で自分で「引っ掛かり」を意図的に作るのかの違いであって、その「引っ掛かり」が人から与えられたものであっても、自分で作ったものであっても、自分でそのことが分かっているならそれで良いのだと思う。

 

だから、「それはあなたの本当にやりたいことなのですか?」みたいな文句に乗せられて自分の今やっている事を安っぽいことだなどと思う必要はないと思う。

親から言われてそれをしている場合でも、本人にその自覚があればそれでいいのだろう。

 

長くなってしまったのでこの辺りで一度締めておく。

多分僕が書いている事は広い意味でのニヒリズムと関係してくることと思われるのでそのあたりの勉強も進めたい。

卒論を書いていた頃に自分がどんなことを書いていたのか、あとで読み返した時に分かると助かる。

(メモ)

下の本にはここで書いたようなことがチラッと載っていたと思う。

後で見直すべし。

 

 

おわり

自分の知識を再構成する試み(過去の勉強内容を総点検したい)

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何で賢くなりたいのかをまず考えるべきだと思う。


このテーマは大学に入学してからかなり長い間漠然と頭の片隅にはあって、でも全くと言っていいほど整理できずにいた。

 

このままだとこのテーマについての僕の考えは非言語的な、漠然としたイメージの域をいつまでたっても抜け出すことがないので、一度無理にでも言語化してみる。

 

僕は大学に入ってしばらくした時、もしかしたら2回生(3回生のときだったか?)の時に高校までで習ったことを総点検しておきたいと思った。

 「総復習」ではなく「総点検」であることに注意。

 総復習というとすべての単元を一からやり直すこと、問題を解けるようになることが目標になるかもしれない。総復習という言葉からは、なんとなく高校までで習ったものの細かい知識を思い出すことが要求されているような感じを受けるので僕はこの言葉を選んでいない。

 

点検という言葉を使った僕の意図として、「何を習ったか、何を習っていないか」をはっきりさせたかったというものがある。

 「何を習ったか、何を習っていないか」は普通に考えれば、文科省の出している高校までのカリキュラムを参照すれば分かりそうだがそれでは意味はあまりない。

 

どうしてかと言うと、僕がこの総点検で重視しているのは「自分の言葉で説明する」ことだからだ。

 あくまで自分の現時点での理解を確かめたかったので、自分の言葉で説明することを僕は重視している。その結果として、自分はこんなことを今まで習ってきたのか、という発見があればいいなと思っている。

 

そして、高校までの知識を総点検しようとしたのだけど、結論からいうと結局これと言って何かをしたということはない。少なくとも教科書を読みなおしたり「学びなおし」というようなタイトルのついた本を読むこともほぼなかった。

 

何故、体系的に学びなおすことをしなかったのか。

理由①モチベーションが続かない。

理由②浅く広くやってもそれは高校までの勉強と同じであり、結局頭に入らないと思ったから。

 

理由①について。特に書くこともない。高校までの勉強は、目の前にテストや受験などの分かりやすい目標があったから何とかモチベーションを保てていたのだろうと少し寂しい気持ちになった。本来それくらい自分にとってどうでもいいことに膨大な時間を使っていたのか?など考えた。考えても仕方ない。

 

理由②について。体系的な学びなおしをしなかった理由の8割くらいは理由①で残りの2割くらいが②になる。高校までの勉強がイマイチ血肉化されていない理由として、自分に興味のない事柄を自分の生活に引き付けないままの形で無理やり記憶していたから、というものが考えられた。だから、漠然とではあるけど今までの勉強の仕方と同じ仕方で総点検をしても、また時がたったら忘れるし、知識という点以外でも得られる事は少ないかもしれないと思っていた。

 

そういう経緯があって、現時点での総点検の試みは日常生活を送る中で今まで習ったことを自然と思い出す機会があった時に、その事柄が自分にとってどいう意味を持っているかを少し考える、というところに落ち着きかけている。

 

例えば新聞で「円高・円安」という語句を見つけたとする。その時に僕は「たぶんこの語句は中学か高校の公民で習っている。僕はこの語句を見た時にだいたいの意味は分かる。けど、実際に自分の生活でこの言葉を使うイメージはそんなにない。それは、自分が投資だとか為替にそれほど近しい生活を送っていないからだ。じゃあ、自分が将来投資などすることがあればこの言葉は身近な言葉になるのか」みたいなことを出来れば考えるようにしている。実際にはこんなにしっかりとは考えていなけど。

 

特別意識していることは特にない。いろいろ考えると面倒くさくなってすぐやめてしまうだろうから。それでも強いて気を付けていることがあるとするなら、変にかっこつけて自分の分からない言葉を使って分かった気にならないことくらいである。

 

先ほど「自分の言葉で説明できるようになりたい」みたいなことを書いたが、結局それは自分が分かってることと分かっていないことを曖昧なままにしておきたくないという想いからきている。

 

「分からない」ことを無くしてすべて「分かる」ことはできないし、幸福になるためには別に必要なことではないかもしれない。でも自分が何を「分かっていて」何を「分かっていない」かを把握しておくことはいろいろなことを考える上で大事になってくると思う。

 

分かっていないことが何なのかをだいたい把握できていれば、それを学ぼうと思えるかもしれないし、費用対効果に照らして諦めようと思えるかもしれない。

何かでうまくいかないことがあった時、行き詰っている時に、その原因を探りやすくなるかもしれない。そして、またうまく諦められるようになるかもしれない。

 

自分が分かっていないことを自覚していないことで、何か上手くいかなかったときに、その原因を自分以外のもの(=他者)に帰すことが僕は一番みっともないことだと思っている。そしてそのような態度は周りの人も不幸にする。自分がうまくいかないことの原因を他者に帰さないためにも、自分について世界について分からないものを分からないとしっかり認識することが必要に思う。

 

 

 

 

書きそびれていたけど大事なこと

前回の記事では現状を客観的に把握する際に生じる困難とその対策について書いた。

 

izunoxxx.com

 

この記事で書いたことを反芻していて、少し内容的に固かったなと思った。

「教科書的」と言えばいいのか、筋道だてて説明することに集中しすぎて結果的に自分の本当に考えていたことから少し離れてしまった感がある。

自分のもともと持っていた感覚として、人が自分のことを客観的に分析できないのは、もっと「人間臭い」理由が根底にある。

前の記事で書いたことを全面的に撤回する気はさらさらなく、あそこに書かれていることも僕の考えている事ではあるが、大事な部分を抜かして書いてしまったなという感が否めないので、長い補足としてこの記事を書く。

 

前回の記事では、人が現状を客観的に分析することに際して困難を感じるのは、簡単に言えば、その作業が面白くないからである、という結論を出した。そして作業を無理にでも楽しむ工夫を見つけることをその一応の対策とした。

「現状分析から遠のいてしまう理由はその行為が面白くないからである」というテーゼは間違っていないけど大事なことが抜けているなと感じる。

「面白くない」には複数の意味がある。前回の記事で僕は「面白くない」を「退屈だ」の意味で使っていた。これはいわば「+(プラス)が無いことからくる面白くなさ」と言える。「面白くない」のもう一つの意味として「-(マイナス)があることからくる面白くなさ」もある。これについては後で見る。

 

まず一つ目の面白くなさについて。これは目に見える結果、自分の成長を確認させてくれるものがすぐに手に入れられない、という意味で「面白くない」。前回の記事で取り上げていたのはこちらの意味での「面白くなさ」だ。

この意味での面白くなさがあるだけで人は自然とその行為から遠ざかっていくことだろう。

でも、遠い未来であったとしても何かしらの利益を得られると思うことさえできれば、人はその面白くなさを我慢して現状把握に勤しむのかもしれない。+がすぐに目に見えて現れなかったとしても、我慢強く取り組めばたいていの場合はそれなりの結果が出る、はずだから。

 

だから、現状の分析を怠ってしまうのは「+(プラス)が無いことからくる面白さ」からだけではないと言える。

そして、こちらの方がより本質的だと思うのだが、人を現状分析から遠ざけているのは面白くなさのもう一つの側面である「-(マイナス)があることからくる面白くなさ」だろう。

「-がある」というのはすごくボンヤリとした言い方だが、ここでのマイナスは主に現状を認識することによる、落胆・恥ずかしさ・悔しさの類だ。

もっと分かりやすく言うと「理想と現実のギャップを感じることからくる精神的苦痛」になる。

 

「何で頭では分かっているのに現状改善のために動き出せないのだろう」。

こういう問いに向き合っていく中で、「+が得られないから」という「もともとなかったものを得られなかったことからくる悔しさ」以上の何かが人を当該行為から遠ざけているのだろうという仮説に至った。そしてその何かは、自分の経験からして「現状を分析することでいかに今の自分が理想からかけ離れたところにいるのかを認識することによる苦痛」であると思われる。

 

どれだけ自己啓発系のハウツーが世の中に出回っても、最終的に「やるかやらないか」のどちらに一歩を踏み出すかは常に各人にかかっている。

そして、その「やるかやらないか」は放っておいたら50%の確率で「やる」、50%の確率で「やらない」になるような類の2択ではない。

放っておいたら基本的に「やらない」の方を無意識に選んでしまう設定になっている。

少なくとも僕のここまでの考えではそうだ。

そしてこの記事で書いたことは、なぜ「やらない」を無意識的に選んでしまうのか、に対しての解答になっている。

「現状の把握」に関して言えるかもしれない事を、行為全般に敷衍するのは妥当だろうか。僕の個人的な見解を書いておくと、たいていの行為に関して「現状の把握」について言える心の動きの特性と同じことが言えるはずだ。

「わざわざ何かをして失敗するくらいならしない方が良い」「すぐに結果が出ないかもしれないし、もしかしたらずっと結果が出ないかもしれないなら最初からしない方が良い」これらはおよそなんにでも当てはまるだろう。

特に「現状の把握」に関しては、そこで得られた認識が「こうありたい自分像」をダイレクトに苦激してくるから厄介だ、ということだ。

 

この記事を書いて少しは頭の中がクリアになった感はある。

だからといって、「やるやらない」の2択から「やる」を選びとるのが今までより楽になるとかはないと思う。

ただ、この記事を書くことすらも「現状の把握」ということで、一歩前に進めたと自分では思っている。

 

おわり

 

 

 

 

 

プリズナートレーニングに喰らいつく(メニュー・頻度・効果・モチベーション等)

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「鍛え抜く」っていう言葉が好き

僕はここまでの記事で頭の働かせ方ばかりを取り上げているのでそろそろ体の使い方、鍛え方についての記事も出しておく。


僕がしている筋トレは『プリズナートレーニング』と呼ばれるものだ。

 

 

リズナートレーニングとは、その名の通り「囚人のための筋トレ」だ。

 

著者のポール・ウェイドさんは元囚人で、刑務所にいた時に身を守るために自重筋トレの研究・実践に取り組んだ方だ。自重筋トレと言うのは、バーベルやマシンなどの器具を使わずに自分の体だけで行う筋トレのことだ。*1ポールさんのいた刑務所はアメリカの刑務所の中でも最も”タフな”刑務所だったらしく、そこで生き残るために日々心身を鍛える必要があったらしい。

 

 そんな環境でポールさんら囚人の方たちが体を鍛えるために行っていたのが、コンビクト・コンディショニング("囚人のコンディショニング技術”)だ。

 

僕はこの「コンビクト・コンディショニング」という名前に込められている「塀の中で生き残るためには強くなるしかない」という考えが好きだ。

 

大学に入って以降、なんだかんだ「監獄」や「囚人」と名前がついている本を読むことがあった。そういう本を好んで読んでいた。

例えばこれとか(この本の「死の家」というのはシベリアの「監獄」もしくは「牢獄」を意味すると思われる)

 

なぜか。それは「監獄」や「囚人」といった言葉にどこかしら力強さを感じていたからだと思う(捕まるのはまっぴらごめんです。犯罪は犯さない)。

 

身の危険をほとんど感じることのない現代に生きる僕にとって、非日常過ぎないレベルで生と死の強烈なせめぎあいを感じられるのがこういった類の本だったのだろうと思う。

 

とまあ、そんな感じで僕はこの筋トレに惹かれたわけで、かれこれこの筋トレを続けて2年半ほど経つ。

 

夜9~10時(それより遅い時間の時もある)からだいたい20分ほどジョギングをして公園に行き、そこで自重筋トレを20分ほどして、また20分ほどジョギングして帰ってくる、というのを2~3日に一回ペースでしている。

 

別に朝一で走ったり、夕方走ったりもできなくはないのだが、それだと一日に2回風呂に入らないといけなかったり、夕方走る場合は生活リズムをそれ仕様にするのが面倒ではある。

 

そして何より夜にトレーニングをすると、夜の公園で一人静かに体と向き合っているという、コンビクト・コンディショニングの精神が感じられて良いのだ。

 

こんな感じで鍛えてはきたが、筋肥大に関して言うとそこまで大きくはなっていない。

 

『プリズナートレーニング』は腕立て伏せ・腹筋・スクワット・ブリッジ・逆立ち・懸垂という6つのパートに分かれており、それぞれに10のステップがある。

 

僕は腕立て伏せのパートの6ステップ目まで到達したけど、見た感じ腕が特別ゴツクなったという感じはしない。

 

腹筋も特に大きくなったという感じはない。しかし以前に比べて引き締まった感はあって、いわいるシックスパックも夢ではないな、という感触がある。

 

また、いわいる体幹が強くなったことも実感している。

 

もともと僕は体幹が弱い方で、腕立て伏せの時とかも体を一直線に保てなかったり、ランニング時に体の軸がぶれている印象があった。

 

それが、この2年半ほどのトレーニングにより、多少は体に「軸」を感じられるようになりつつある。

 

具体的には腕立て伏せをする際に体をまっすぐ固定できるようになったことや、ランニング時にブレが軽減されたように感じている。

 

「使える筋肉」「使えない筋肉」という区別にどれだけ意味と信憑性があるのか知らないけど、僕はこの「使える筋肉」を醸成している感が割と好きなので、なかなか筋肉が大きくならなくてもそこまでイライラしたりはしない。

 

その一方で、見た目のゴツさも強さの内だと最近思い始めてきたので、筋肥大にももう少しコミットしていきたい。

 

強くなるための食生活と精神統一についてはまた別の記事で書こうと思う。

 

おわり

 

 

 

 

*1:ボール・鉄棒・机など、筋トレのために作られたものでない道具を自重筋トレでは用いることがある

自分を客観視する際に生じる困難について

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戦略的に生きていきたい、という想いは持っている

目次

はじめに

先日の記事で、物事を最短距離でマスターするための頭の使い方を見た。

 
izunox.hatenablog.com

 


 その記事では、以下の①~③のプロセスを高速でまわしていくことを結論として挙げた。

①自分の現在地の客観的把握

②目標地点までに足りないもののが何なのかを分析

③現在地から目標地点までに行きつくためにすべきことを割りだす

 

本記事では上の①「自分の現在地の客観的把握」のプロセスでどのような困難が生じるか、そしてその困難が生じる理由、対策を考察する。

 

どのような困難が生じるか

「自分の現在地の客観的把握」の段階で生じる困難・問題は当然「正確に現在地を捉えられないこと」つまり、過大評価・過少評価の類だ。

 

では、何についての過大評価・過少評価なのかと言う話であるが、それに対して「現在の自分の客観的成果・結果・成績」と答えるだけでは片手落ちという感がある。

 

思うに、「自分が採用している方法論はどんなものなのか」という観点でも見る必要がある。

 

つまり、現在地の客観的把握に際して生じている困難には次の2つがある。

⑴量的・質的な成果・結果・成績を把握するのが難しいという意味での困難

⑵自分の採用している方法論がどんなものなのかを認識するのが難しいという意味での困難

 

自分が挙げている成果・結果・成績を出来るだけ定量的に把握することができれば、まずそれに越したことは無いだろう。

 

でもそれだけでは不十分で、その成果を出すための方法論が現時点で自分の中で整理されているかどうかも大切だ。

 

「方法論が整理されている」というのはつまり、『「何をどのくらいやればどんな結果が得られるのか」についてのデータを取り揃えていること』ということ。

 

物事をマスターしていくという観点でいえば、人がしていないような様々な経験をしてきたという意味での「経験豊富」よりも、「何をどのくらいやればどんな結果が得られるのか」のデータがたくさんあるという意味での「経験豊富」が求められていると言える。

 

困難が生じる理由とその対策

上記のような困難

⑴量的・質的な成果・結果・成績を把握するのが難しいという意味での困難

⑵自分の採用している方法論がどんなものなのかを認識するのが難しいという意味での困難

 

がなぜ生じるのか、僕が思うにそれはこれらの分析作業を実行に移した時に結果がなかなか現れず、だんだんと面白くなくなっていくからである。

 

自分の現状を把握するための指標となるもの、例えば、体重・テストの点数・月収・ブログのアクセス数・歩数・時間など、客観的に自分の立ち位置を知ろうとしたときに使えるものは今のご時世探せば以外とある。

 

定量的に分析するのが一見難しそうなものでも、目標を要素要素に分解することで客観的に現状を把握することが可能な場合もあるだろう。

 

そしてもちろん、どうしても客観的に把握することが難しいこと、例えば日毎の体調・気分なども、日々の感想を日記に書き留めるなどで、客観視に近づけることは可能かもしれない。

 

それでも、人はこれらの分析作業をなかなかできない。

少なくとも僕はやってこなかったし、今でも調子がいい時にちょっとやるくらいだ(だからこの記事を自分のために書いている)。

 

結局何がこれらの分析から僕を遠ざけているのかと言うと、作業が面倒な割に結果にその作業が反映されるまで時間がかかることなんだと思う。

 

これらの分析作業をしてもそれ自体では、知識が増えたり、体重が減ったり、キックが上達するわけではない。

 

なんといってもそこがつらいところだ。

 

これらの分析作業をしている間は目に見える成長はない。だからこそ僕はこれらの分析を怠り、目の前に転がっている今スグにできる課題に突進してきた。

 

と言うわけで、以下では自分の怠惰を打ち砕く対策を考えてみたい。

 

今考えているのは、分析作業をしていてかつ、結果を出している人・カッコいい人を目に焼き付けて、自分もマネしてみるというものである。

 

僕の場合は、東大・京大のユーチューバーの方で数名スゴいなと関心している方がおり、彼らが分析作業をしている姿を想像しながら自分も頑張る、という方法で何回か分析作業に自分を従事させることに成功している

 

あと普通に(?)、スパイとかハッカーとかが僕は好きなので、そういう職業の人って、薄暗い部屋でパソコンの画面に向き合いながら(もしくは無数の写真と新聞記事が貼られ、それらが謎の赤い糸で結ばれた壁の前で腕くみしながら)いろいろと分析しているイメージがあるので、そういうイメージを引っ張り出してやる気を高めるというのもアリかなと思う。

 

分析作業はそれ自体では楽しいものではないかもしれないし、最初の方はそれらの分析がいつまでたっても結果に表れてこない時期があるかもしれない。

 

だから、その分析作業自体を楽しめるといいな、というのが現時点で考えられる対応策になる。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

読書記録 『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』著:橘玲

久しぶりに読書記録を書く。

 

最近は卒論関係の本を読むことが多く、他の本をあまり読んでいなかった

(物理的に読む時間はいくらでもあったことは言うまでもない。ただただ、メンタル的に卒論に「忙しかった」のだ)。

 

昨日読み終わった本が橘玲さんの『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』幻冬舎(以下『残酷』)だ。

 

 

橘玲さんと言えば『マネーロンダリング』(幻冬舎)や『言ってはいけない』(新潮新書)で有名な作家の方だ。

 

今回読んだ『残酷』は、いろんな人のブログを見ていく中で何回か良書として紹介されていたのでAmazonで購入した。

 

この本を読む前に同じ作者の『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)を買って読んでいてかなり面白いので、まだ読み切るうちに他の著作に手を出し、あとから読み始めた『残酷』を先に読んだ。

  

 

 

 

『残酷』は能力開発を是とする自己啓発の類に対する批判の書として書かれた本なので、昨今の自己啓発ブーム(少し前の時代か?)に違和感なりなんなりを感じている人にはお勧めだ。

 

『残酷』を読んで思ったこと・学んだこと

この本を読んでいて、幸福について書かれている箇所に橘さんの幸福感が垣間見えていて面白いなと思った。

 

第4章「幸福になれるのか?」の「無限の快楽を作る方法」では、現代社会において快楽を得ることがこれまでの時代に比べて低コストになったこと、さらに脳の仕組みがよりクリアになれば化学的に快楽を再現できる日も近いのではないか、と説かれる。

 

快楽がそのように手軽に得られる時代になりつつある一方で、著者は快楽の集積が幸福ではないと言い切る。

 

 とはいえ誰もが知っているように、幸福はこうした生理的快感の集積のことではない。麻薬中毒者はすべての快楽を知っているかもしれないが、だからといって彼の人生が幸福だと思うひとはいないだろう。

 幸福になるためには、快楽だけでは足りない。いったい何が必要なんだろう。

                                               『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』p. 232

ここでの生理的快楽は美食、セックス、さらにはドラッグの服用で得られる快楽一般を指す。

 

橘さんは「幸福はこうした生理的快感の集積のことではない」と言い切る。

少なくとも、生理的快楽だけでは幸せになれないと説く。

 

では、何が幸福を構成するかというと、その答えは「評判」だとされる。

 

幸福にとって最も大切なのは評判である、についての詳しい話は割愛する。

 

この話に僕は多少の違和感を覚えた。

 

というのも、美食・セックス・ドラッグなどで得られる快楽を生理的快感も、社会の中で功績を打ち立て「評判」を得ることで感じる快感も、(橘さんの言葉をかりれば)大脳生理学的に見て大きな違いはないだろうからだ。

 

本著作でも触れられているように、人が快感を感じるのは脳内で快楽物質であるところのエンドルフィンやドーパミンが放出されることによるが、そのメカニズムは美味しいものを食べた時にも、会社で昇進したときにも、ほとんど同じように働くだろう。

 

つまり、橘さんが言うところの「生理的快感」と「評判」から得られるところの快感には、物質的に見れば大きな違いはないのではないか、ということだ。

 

同じ快楽物質が放出されてはいるけど、それらが放出されるプロセスが「ドラッグ」だったのか「会社での昇進」だったのかによって、生まれる幸福感に違いがある、という説明のされ方がなされているように感じた。

 

もちろんドラッグと昇進から生まれる幸福感をひとまとめにできるとは僕も思わないが、進化生物学というある意味唯物論的な考えに則って論を進める橘さんであるなら、

ドラッグから生まれる快楽と昇進から生まれる快楽が、同じ快楽物質から生じる点で同じ種類の幸福だと論じてもおかしくはない。なのに、そこの詳しい説明がなされていない(僕が詳しい説明を見つけられなかっただけかも)まま、それら二つの快楽から生まれるところの幸福を全く別のものとしているところに違和感を覚えた。

 

橘さんは「評判」を生理的快楽に還元できないものとして考えているようなので、なぜそう言えるのかを考えてみたい。

 

おわり

 

長き夜を少しでも生産的に過ごしたい

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眠り姫


寝れない。

ここ2,3年ほど夜寝られないことでかなり悩んできた。

 

前の記事で書いてきた通り、ここ数年ほど半ニートのような生活をしていて日中の活動量の少なさが、夜寝られないことの主原因かと思われる。

 

まあ、原因は何でもよくて今日は(も)せっかく寝られないので、こうやって寝られない時の時間の有効な使い方について考えてみる。

 

数年後にこの記事を読み返して当時考えていたことを振り返るときに、当時(つまり今)の気持ちがありありと思い浮かべられるといいので、寝られない時の心情から書いておく。

 

端的に言うと、夜寝られない時の精神状態はすこぶる悪い。

日中あれだけ眠たかったのに、いざ寝られる状態になると目が冴えてくる。

不思議なものだ。と同時に怒りがこみあげてくる。

また長い夜が来たぞと。

 

ここ数年の就寝時間は、バラバラだが、体感としては2時半から4時くらいが一番多い。そして、毎日夜何をするでもなく、ダラダラする時間がほぼ毎日1~2時間はあったように思う。

すくなくともここ半年くらいはそんな調子だ。

 

寝られない時にYouTubeとかTwitterを見るのはよくない。

よくはないが、なんとなく見てしまっている。

 

ベッドで横になりながら見たりしたときの方がより目が冴えてしまう感がある。

 

不思議なこととして、深夜起きてると、その時間は何処からともなく降ってきた

ボーナスタイム」みたいに思ってしまう。錯覚だ。

 

夜更かしして、スマホを見続けて無駄にした時間は確実に次の日の活動可能時間からマイナスされる。

 

夜更かしした分睡眠時間を減らすというなら、それは確かに夜起きている分だけ活動時間が増えたことになるが実際次の日の朝に早く起きられるほどのバイタリティーを今はもちあわせていない。

 

厄介なポイントとして、深夜は勉強したり本を読む気になりづらい。

 

なんというか机に座ってペンを持つという行為の億劫さがすごい。

 

これは間違いなくある。

 

なんというか、ただ現状を綴っただけになってしまったが、現状把握が多少なりとも進んだだけでも有益であったと思う。

 

最後に、過去に僕が寝られない時に数日ほど読んで投げ出した本を記念においておく。

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

  • 作者:ヒルティ
  • 発売日: 1973/05/16
  • メディア: 文庫