この世界はゼロサムゲームか。もしそうだとすると自分の幸せは他人の不幸か。②

 

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前回の記事では、ゼロサムゲームの定義が「複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況」であることを確認した。そして、僕が考えていきたい問題が「この世界はゼロサムゲームか」というものであることも書いた。

さらに僕がなぜこの問題を考えようと思ったのかを書いた。その中で、「競争が嫌なら公務員か窓際族にでもなればいいのか」という考えを検討することを通して、実は公務員も窓際族も間接的に「競争」には与しているため、競争から逃れることはできないと述べた。詳しくは↓の記事から。

 

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前回の記事の最後の方で、現代社会に生きる人は「不可視の競争」に参加せざるを得ないと書いた。それはつまり、人々が競争とは意識していないものでも、実は競争の側面を有しているものがこの社会には無数にあり、人々はそれと知らずにその競争に参加しているといことである。

 

公務員の枠を争うことも窓際族の枠を争う(?)は、もはや「不可視」でもないと思うが、現代社会(有史以来そうなのかもしれないがここでは一応現代社会としておく)には文字通り「不可視の競争」がある。

 

例えば、遠い異国の地の農園で働いている人と、先進国に住み、彼らの作った農作物を消費する人々の間には、ある意味での競争がある。農作物を輸出することで、多少その国が潤うとか、農場で働くことができるからそこにいる人はなんとか食べていけるとか、先進国で暮らすのと後進国のそのような農場で働くのとどちらが幸福か分からないなど、あるかもしれないが、控えめに言っても「搾取」の構造は存在するように思われる。そして、先進国が後進国を「搾取」できているのは、歴史のある時点(例えば帝国時代?)にその国を植民地にしていた名残だとか、その国よりも工業化、経済の発展が早かったとか、いずれにしてもなんらかの競争が存在していて、その競争に勝ったからだと言える(競争における力関係がひっくり変えてってしまわないように先進国は気を付けているかもしれない)。

 

そして、現代の先進国(ここでは「先進国」としているが、後進国が先進国を「搾取」する領域・分野もあるかもしれないしそのことは承知の上で話を簡単にするために一般化している)に住む人々は、その「戦果」を日々享受していると言える。この社会をグルグルと循環している富の源泉で「搾取」があるとすれば、その富を消費して生活する人は、知らず知らずのうちにその「搾取」の成果(=「戦果」)に与っていることになる。このことをもって、先進国の人間は「不可視の競争」に勝っていると言える。

 

「不可視の競争」はもちろん国際関係に限った話ではない。

個人と個人のあいだでも「競争」の図式はいたるところで見ることができる。

 

以下の例は、「そのように見ること考えることも可能である」

 

例えば、美容。ある人が二重になる整形手術をしたとする。その行為は、見た目競争(この例でいうと異性獲得競争)で少しでも順位を上げる行為であると言える。そう解釈できる。

ある人が二重手術をしたことによる効果は波紋のように社会全体に波及していく。二重手術をした人に対しての周囲の反応(特に異性の反応をここでは想定してみると話が分かりやすい)が良くなったのなら、「私も二重手術をしたい」と思う人は増えるだろう。今まで意識もしたことのなかった人も、少しは手術のことを意識し始めるかもしれない。そして、「知人の二重手術に影響を受けた人に影響を受ける人」が出始め、以後理論的にはその行為(二重手術)が競争(異性獲得競争)にとって有用でなくなるまで、つまり、誰もが二重手術をして二重であることの価値が落ちてしまうか、もしくはそもそも二重より一重の方が美的に価値があるとされる世の中になるまでその波紋は続く。

 

もはや「不可視」ではないが、ありふれていて普段人々が意識しない分野における競争の例をもう一つ。

例えば、広告業界においての、「人々の可処分時間」の奪い合い。

昨今、広告の業態は多種多様になっている。

例えばテレビ・新聞・TwitterInstagramYouTube・さらにビルや電車・バスにポスターを貼るタイプの広告など、もはや人の視線の集まる所には絶対と言っていいほどに広告がある。

そして、それらの広告を貼る広告主は常に一つのことを考えている。

ズバリ、人々の視線をどれだけ長く自分の広告にとどめておくかだ。

テレビでもYouTubeでも、広告主(ここではテレビやYouTubeにお金を出して自分の広告をそのプラットフォームに載せてもらっている人達を指す)が一番に考えているのは、テレビやYouTubeの内容が面白いか否かではなくて、自分の広告をどれだけ多くの人がどれだけ長い時間見てくれるかだ。

つまり、広告業界では、人々の視線、言い換えると「何かを見る時間」を奪い合う競争が日夜繰り広げられていると言える。

 

これからますます高度な技術が出現して、人々の労働時間が減り(自由時間が増え)、先ほど挙げたTwitterYouTube・テレビ・新聞などに使える時間がこれまで以上に増えたとしても、それでもその時間の総和は有限だ。

仮に、人々が仕事中であったとしても、彼らの「視線を盗む」ことを広告業界がして見せたとしても、それでも人一人の可処分時間は24時間を超えることは無い。

つまりは、(最大値で)「世界の総人口×24(時間)」を全広告業界が取り合っている。

そしてさらに、広告業界は「人々の時間・資金を取り合う」という意味においては、他のありとあらゆる業界と競合である(一部からは恩恵を受けてもいるだろうが)ともいえる。

 

このように、競争は、個人レベル・企業レベル・国レベルと、どのレベルにも存在していると言えることが分かる。

そして、さらにミクロな視点で物事を見ても、逆にマクロな視点で物事を見ても、そこには競争と呼べるものが存在している。

 

ミクロな視点で言うと、例えば人体とウイルス、細菌との闘いがある。

人の体には、外から来た有害なウイルスや細菌を排除するための免疫システムが備わっている。そのシステムが犯されたとき、人は病気になる。人は普段「あー、今、キラーT細胞が闘ってるわ~」などと考えたりしない。考えはしないが、生理学的反応を介して、無意識のレベルで侵入者を打ち負かし続けていると言える。

 

この例は一人の人間vsウイルス・細菌であるが、この現象をマクロな視点で人類vsウイルス・細菌として見ることもできる。これが先ほど述べた「よりマクロな視点で物事を見た」場合の競争に該当する。

 

コロナウイルスが蔓延するずっと前から、人類はウイルス・細菌との闘いを続けてきた。ウイルスや細菌に、「人類を滅ぼす」という意志は無いだろうが、実際に起こっていること、起こってきたことは、人類とウイルス・細菌との生存競争以外の何物でもない。

 

もう少し「人類vsX」という枠組みで考えてみる。

 

現在人類は、地球上の動物(深海・ジャングルを除く)をほぼ完全に支配している。もしくは支配しようと思えばそうできる状態にある。

では、地球の生命体とはどのような関係にある?

現時点では地球外生命体の生存は確認されていないようだが、潜在的な生存競争の相手が宇宙空間には無数に存在しているだろうとは考えてもよさそうである。

 

少し話が大きくなりすぎた感が否めなくもないが、ここまでで、いかにこの世界が競争で満ち溢れているか、もっというと競争が無い「隙間」など存在しないことが分かっていただけたことと思う。

 

人が一人いるだけで、その身体の中では無数の細胞が無数の侵入者と攻防を繰り広げている。それはどの動物であっても同じだ。

 

次の記事では、もう一度ゼロサムゲームの定義「複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況」に立ち戻って、上で確認した事例は、ゼロサムゲームと言えるのか否か、ゼロサムゲームだとしたら何が言えるのか、もしゼロサムゲームでないとしたら何なのかを考えたい。

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

「~なりに頑張っている」のは本当は素晴らしい。②

前回の記事では、「~なりに頑張っている」と人から言われるとき、もしくは自分自身に対してそのような評価をするとき、なぜ少なからず不快感・口惜しさがあるのかについて分析した。

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そこから、「~なりに頑張る」ことが本当はすごく難しいことであることに僕が気が付いたということを書いた。僕は、「~なりに頑張る」ことを「易きに流れる」ことのように感じていたが、実はそうでもなくてむしろすごく難しいことなのだと考えるようになった。

 

今回は、前回の話からさらに進めて、人が生きている限り本来的に「挫折」し続ける生き物だということを書いていく。

 

「挫折」という言葉からは「長年の努力の末に夢かなわず」的なニュアンスが含まれている。才能の欠如によって、夢が「ボキッ」と折れてしまうイメージ、大層なイメージがある。一般的にそのようなイメージを持たれている言葉だろう。

 

でも、ここでの「挫折」はもっと一般的に、願いがかなわないこと、欲求が満たされないこと、の意味で使う。喉が渇いているのに飲み物が手に入らない。可愛い彼女が欲しいのに手に入らない。100メートルを10秒で走りたいのに走れない。空を飛べないetc.

 

現実可能性を度外視するのなら人はあらゆる願望を持つはずだ。今すぐに真水が飲みたいし、可愛い彼女が欲しいし、100メートルを5秒で走りたいし、大空を羽ばたいてみたい。

しかし、現実的にそれらの願望の多くは叶わない(水くらいは手に入るかもしれないが、ここが日本でなく、エジプトの砂漠のど真ん中であるとしたら水を手に入れるのも相当困難だ)。

 

大抵の望みが叶わないことを人は経験から学び、次第に満たせる範囲の欲求だけに意識的になる。火星に行ってみたいと昔思っていたが、今は公務員を目指している。イケメン彼氏が欲しいと思っていたが、今の彼氏で妥協している。「挫折」が見えにくくなっているだけ。「なんでも手に入る」世界(いわゆる「世界線」)から見た時の現実世界は夥しい量の「挫折」にまみれていることが分かってもらえたことと思う。

 

「挫折」と「~なりに頑張っている」がどう結びつくか。

 

ここから話が変な方向に行く、というか極端になっていくが「こうも考えられる」くらいのノリで読んでいただきたい。

 

僕が思うに、人はある意味で毎瞬間「挫折」している。人生は、夥しい量の「挫折」にまみれているというより、文字通り「挫折」の連続だ。

 

ある行為を毎秒選択し続けるということは、それはすなわち他の可能性を捨て続けるということだ。人は意識的無意識的にある行為を選択しながら、生命維持活動をし続けているが、「最もベストな選択」、つまり現実可能性を度外視したなかで最善の選択肢(例えば「過去に行く」)からは常に疎外し続けられていると言える。つまり、非現実的な空想は、文字通り、現実化はせz選択肢からは常に疎外し続けられていると言える。つまり、非現実的な空想は、現実化はせず、しかし人間はそのような空想を思考できてしまうので、毎秒(ふつうそんなことは意識しないが)そのような非現実的な可能性・選択肢から疎外され続けていると言える。

 

「現実可能性を度外視したなかでの最善の選択肢」(例えば「過去に行く」など)を持ち出さないまでも、人は、「現実的には可能だけど実際にはとても難しい選択肢」から毎秒疎外されていると言える。先ほどの例に挙げた、「100mを10秒で走る」はここに分類される。

 

「100mを10秒で走る」ことができる人は、9秒台で走りたいだろうし、9秒台で走ることができても自分よりも早く走る人が1人でもいる限り、その人はある意味で「挫折」していると言える。

 

これは別に「世界ランキング2位以下」の人だけに当てはまるのではなくて、「世界ランキング1位」の人にだって当てはまる。「最善の努力」をしていれば、(例えば100m走で)タイムをあと0.00001秒縮められたかもしれない、と言うことはどの選手についても言える。常に言える。100m走に限らず、すべての種目、仕事、日常生活のあらゆる場面で、人は(可能的な)「最善」から疎外されている。され続けている。

 

以上のことを考えてきて、「~なりに頑張る」に対してこれまで抱いていた「自分で限界を決めてその枠の中に甘んじている」というイメージが変化した。

 

思うに、誰であっても本人が意識意識しているかしていないか関わらず、上記のような意味で「挫折」は常について回るものだ。

つまり、人であれば全員が「現実可能性を度外視したなかでの最善の選択肢」(例:過去に戻る)からは疎外されているし、大多数の人が「現実的には可能だけど実際にはとても難しい選択肢」から疎外されている。

人間であれば誰しもが、少なくとも前者の意味で、毎瞬間望みが絶たれているという意味で「人は、ある意味で毎瞬間『挫折』している」ということである。

 

僕は、最近ここに書いたことに意識的になり、「今目の前にいる見ず知らずの人も、特別口に出したりはしないけど、毎秒たくましく生きてるんだな」と思うようになった。

「みんな違ってみんな良い」だとか「もともと特別なオンリーワン」だとか、別に嫌いではないけど、特別良い言葉だとも思わなかった。なんとなく綺麗ごとに聞こえるので。だって、なれるものなら「ナンバーワン」になりたいじゃん、という。全員がナンバーワンに(必然的に)なれないから、「もともと特別なんだよ~」と言い聞かしているんじゃないの、みたいな。

 

その考えが少し変化してきている、ということ。ここまでかかって書いてきたのは。

確かに全員がナンバーワンには(絶対)なれないし、その痛みは地球上から消えてなくなるときは(人類が滅亡するまで)こないだろう。僕だって、一生「~であればいいのにな」と少しは思いながら生きていくのだろう。

 

それでも、もう一方の側面にも光を当てることはしていきたい。「ナンバーワンになれやしないのに頑張っている」と捉えるときもあるかもしれないが、「~なりに頑張っている、凄いことだ」とも捉える余地があることもたまには思い出したい。

 

「~なりに頑張る」という(ほぼすべての)人間に課せられた条件の難しさを再認識し、その過酷すぎる条件のなか(本人が意識するしないにかかわらず)懸命に生きてることって、かえって素晴らしいことなんじゃない?という話でした。

 

つづく

 

 

 

 

この世界はゼロサムゲームか。もしそうだとすると自分の幸せは他人の不幸か。①

大学入学以降ずっとこのトピックでモヤモヤしてきたので、一度腰を据えて考えてみる事にした。

 

 ゼロサムゲーム(ゼロ和)とは

まずはゼロサムゲーム(ゼロ和)の定義から。

ゼロサムゲームは、Wikipediaで調べたところ次のような定義になっていた。

 

ゼロ和(ゼロサムゲーム)複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況を言う。(Wikipediaより引用)

 

つまりは、ある人の利益を+、ある人の損失を-と考えた時、それらの総計が0になる状況のことをゼロ和(以下ではゼロサムゲーム)と呼ぶ。

 

ゼロサムゲームはゼロ和(zero-sum)とも言うらしい。

sum(総計)すればzero(ゼロ)になる、そのままだ。

 

Wikipediaにはゼロサムゲームの例として競馬・パチンコ・スロット・FXなどが挙げられていた。

 

FXなどは分かりやすい例ではないだろうか。

儲かる人がいればその裏側には必ず損をしている人がいるということ(FXを取り締まっている会社は手数料を取れるのでその限りではない)。

 

何を考えていきたいか

僕が今後考えていきたいのは、冒頭にも書いた通り「この世界はゼロサムゲームか」という問題について。

 

この問題がどういう意味なのかについては、後々細かく定義していくつもり。

もしかすると語の定義を明確にする段階で、そもそも問題の立て方がおかしかったことに気が付いたり、もっと面白い問題に変化していくかもしれない。

なぜこの問題を扱おうと思ったのか

 

この問題を最初に考え出したのは大学生になってからだと思う。

 

高校卒業まで部活や受験というはっきりと競争の形をとった制度の中で暮らしてきたが、自分が「競争の中で暮らしている」ということを意識することはほとんどなかった。たぶん毎日の生活が忙しくて、いろいろと考える余裕が無かった。

大学入学後は一転、いろいろと考える余裕ができて(しまって)将来についても考えるようになった。その時にふと、「このあと会社に入ってそこでも延々と競争していくのか」と漠然と、しかし中学、高校時代よりはリアリティをもって考えた。

 

「競争が嫌なら万年平社員でいればいいじゃないか。もしくは公務員にでもなればいいじゃないか」と言われそうだ。そして実際僕は自分自身に対して何度もそのツッコミを入れた。

 

たしかにその指摘は間違っていない。競争が嫌ならば、比較的競争の少ない公務員になるか、民間に入ったとしても、出世競争のレールから早々に外れればいいのだ。

でも、もし仮に自分が公務員になったり、万年平社員として出世競争のレールから外れる(かつ窓際族としての地位は確立する)ことができたとしても、本質的には競争から逃れられたことにはならないと思った。

 

公務員として働くとした場合、自分の給料は税金で賄われているわけだ。そしてその税金は、もちろんホワイト企業に勤めているサラリーマンや、リッチな経営者により払われてもいるが、一方でブラック企業のお財布から出ている部分も少なからずあるはずだ。そもそもなぜブラック企業が存在してしまうか、というところから考えると、それは無能経営者の手腕に帰せられる部分も少なからずあるものの、社会構造の必然が生んだという側面もあると思った。つまり、大企業の下請けなど、他方(この例でいうと大企業)が儲けを生むために、他方(この例でいうと下請け)が無理をせざるを得なくなっている状態は少なからずあるはずだ。

 

ブラック企業の従業員を置いておいたとしても、非正規雇用者から税金を取っているともいえる(ブラック企業かつ非正規雇用という例ももちろんありうる)。非正規雇用正規雇用に比して、賃金の面でも福祉の面でも低水準かつ不安定なのは言うまでもなく、一部の人たち(例えば主婦や好んでフリーターをしている人*1が自ら非正規雇用者になっているとしても、やはり、限られた正規雇用の席をその席数以上の人数で取り合っていると言えると思った。

 

 

 話が長くなってしまったが、公務員の給料の話に戻る。公務員になると、一見競争から離れられそうなのだが、今書いたように、彼らの給料は国民の労働から賄われていて、その当の労働の現場では競争が常に存在している。そうすると、競争から離れることを目指して公務員になるというのは、見たくないものから目を背けているだけで、実体としては(間接的にではあれ)競争に深く関わっていると言える。

 

窓際族にしたって同じ話だ。窓際族は、その会社の中でこそ低い地位として見られているかもしれないし本人もそう思っているかもしれないが、その人がもし正社員だとするのなら、さっき言ったように、正規雇用のポストをその人が一つ占めていることになる。

つまり、出世競争という意味においての競争には参加していないが、正規/非正規の「不可視の」競争には無意識的に参加しており、リストラなどされない限りにおいて、

 その人は図らずもその競争に勝ち続けている事になる。

 

今の話に出てきたように、現代社会に生きる人は無意識的に競争に参加している。上ではそれを「不可視の競争」に参加していると書いた。この、不可視であり、だからこそ無意識に人々が参加せざるを得ない競争が無数にある、というのが僕が大学1,2回の頃に持ったこの社会に対しての感覚だ。

 

「なぜこの問題(「この世界はゼロサムゲームか」)を考えるようになったのか」という理由を説明するために、ずいぶんと長くかかった。僕は上に書いたような見方(端的にいうと、「社会はゼロサムゲームになっている」という見方)で社会を見ている。

そして、そうして社会を見ているが、本心としてはそうではあってほしくないと思っている。つまり、ゼロサムゲームではなく、誰かの幸せが他の誰かの幸せであってほしいと思っている。

 

長くなってきたから、いったん終わる。

 

つづく

*1:「好んでフリーターをする」ことが本当にあり得るのか、ということ、つまり結局は「酸っぱい葡萄」なのではという話は置いておくとして

「~なりに頑張っている」のは本当は素晴らしい。①

 

基本的に僕は何らかの価値評価をすることを嫌う。価値は基本的には相対的なもの、趣味の領域の話だと思っているから。それでもたまに、これはまあ良いと言っていいよなと思うことがある。

 

大抵の人は、自分が裏で「アイツはアイツなりに頑張っている」と言われるのを快く思わないと思う。この「~なりに」にはいろんな言葉を代入できる。例えば「アマチュア」とか。「彼はアマチュアなりに頑張っている」と言う時、プロではない彼がアマチュアの範囲内ではまあま健闘している、というニュアンスが含まれている。

他には、「足りない」を入れて「彼女は足りないなりに努力している」のようなセンテンス。発話者の傲慢さは置いておいて、このセンテンスからは先ほどのアマチュアの彼同様、高水準ではないものの、その人の出来る範囲で頑張っている、ストラッグルしているというニュアンスがある。

 

「君は君なりに頑張っている」と面と向かって言われても、「あの人はあの人なりに頑張っている」と陰で言われても、僕たちは、嬉しくはないもしくは少し不快にが感じてしまうだろう。それはその言葉に「(自分の頑張りが)ベストではない」ことが含意されているからだと思う。

 

何の制限もなく、つまり「~なりに」を取っ払って、「~は頑張っている」と言う時、その言葉で「誰と比べてもトップになるくらい頑張っている」を意味することも可能だと思う。僕たちが普段使っている「頑張っている」には大抵「~なりに」が暗に含まれており、純粋な形での「~さんは(誰と比べても引けを取らないくらい)頑張っている」はなかなかお目に掛かれないが、僕たちは本来は、「あなたは(誰と比べても引けを取らないくい)頑張っている」という承認を欲しがっているのだと思う。

だから、「君なりに」と言われると、かすかに残っていた「誰と比べても」の可能性が打ち砕かれてしまい、多少の苦々しさ・口惜しさを感じるのだろう。

 

「誰と比べてもトップになるくらい頑張る」とは一体どんなことか。それはつまり、いわゆる「プロフェッショナル」な取り組みに他ならない。ある分野においてトップクラスであるからプロであり、プロであるならトップクラスの「頑張り」が要求される。

そして、そうだとすると、(もし自分がある分野のプロフェッショナルでないとするなら)僕たちは常に「~なりに頑張る」ことの呪縛から逃れることはできないことになる。

 

ごく当たり前のことを書いているつもりだが、真意をうまく伝えるためにここでひとつ例を。例えば、テニス部の秋元さんは熱心に部活に取り組んでいる。秋元さんはプロではないが、それでの県大会に出場し優勝を狙える位の実力の持ち主だ。

こういった状況においても、日常的な言葉遣いとは離れるかもしれないが、僕たちは秋元さんのテニスへの取り組みに対して「秋元なりに頑張っている」と言うことができる(普通は県大会で優勝を狙える人に対して「~なりに頑張っている」などとは言わないだろう。どこか失礼な感じがするから。なぜ失礼に感じるかは上に書いた)。

 

なぜ「秋元なりに頑張っている」と言えるのか。それは単に、彼女は理論上はもっと頑張ることができるはずだからだ。(理想を言うならば)彼女はまず「プロになるんだ」という風に意識を変えるべきだし、昨日3時間練習したのなら今日は4時間練習すべきだし、その他テニスが上達するためにできることはすべてすべきだ、ということになる。彼女が「もっともっと」と自分に対して要求することを止めることができるのは、彼女がプロになった場合だけである。もっと言うと、プロになったとしても世界ランク1位以外の選手は「より良く」する余地が常にあるので、世界ランク1位以外の選手は自分自身に「もっともっと」と要求することはやめられず、人から「あなたなりには頑張っている」と言われることを避けることはできない。

 

「~なりに頑張っている」と言われないラインを世界ランキング1位に設定しても良いし、むしろその方が努力の際限のなさを浮き彫りにできるように思う。すなわち、アマチュアはアマチュアで「アマチュアなりに頑張っている」と言われるし、プロはプロで、世界ランキング1位以外の人は「(1位ではないけど)その他大勢のプロなりに頑張っている」と言われることから逃れられない。要は、「もっとできる」の呪縛から解放される人などほとんどいないということだ。

 

ここまで、「~なりに頑張っている」という言葉が他人から掛けられているように書いてきた。しかし、より強調したいのは、僕たちがこういった言葉を自分自身に浴びせることをなかなか止めることができないということ。むしろ、人がこんなことを面と向かって言ってくることなんてほとんど無くて、たいていは自分で自分が許せていないのだ。

 

例えば、部活で野球をしているが、別にプロを目指しているわけでもないし、甲子園出場が現実的に狙える高校にいるわけでもない球児。例えば、テレビで見たプロヴァイオリニストに憧れ習い事でヴァイオリンを習い始めたが、自分自身がプロになることなど考えられないという人。例えば、なんとなく入った学部で、将来研究者を志望している同級生の隣で漫然と学生生活を送る人。

 

彼らは、「~なりに頑張る」こととベストにはなれない、なり得ない事のはざまで葛藤している、もしくは「していた」のだろう。意識的・無意識的かを別にして、自分の領分で努力することを受け入れたのだ。

 

ある人はそれを「あきらめ」と表現するかもしれない。本人も「あきらめ」とそれを呼ぶかもしれない。

 

いや、自分の話をしよう。僕も「あきらめ」と考えてしまう節がある。自分の意志で「ここまで」と線を引いていたとしても、それはやっぱりあきらめていうことと同じではないかと思っている。

 

長々と書いてきたが、その「あきらめ」と上手く付き合っていくことは実はすごく難しいのではと最近思ってきている。そういうことが書きたかった。「あきらめ」と言う時、「~なりには」と言う時、そこには、自分の基準、いわば居心地の良い場所にとどまっている、甘んじているという感じを受けていた。「あきらめ」たり「~なりに頑張る」ことは楽なことで、それを自分に許すことは甘えだみたいに考えていた。

 

その認識が変わりつつある。思うに、「~なりに頑張」り続けることには、相当のエネルギーがいる。かなりの葛藤がある。自分の中で矛盾を抱えることになる。「1番にはなれない事が分かっているのに、なんで自分はこれを続けているのか」。「もっと時間とエネルギーを掛けられるはずなのになんでこんなに手を抜いてしまうのか」。そういった自責の念に駆られながら、それでも「どうせ1番にはなれないしやめちゃお」とはならない。そういう強さがあるなと思うようになった。

 

なんだろう、上手く書けないのだけど、プロになれないとか、1番にはなれないとか、そういうことを不意に意識してしまったときの「負けた感」がすごく嫌で、それを意識しない方法を探してきた。その方法としては、勝負に勝ち続けるか、勝負しないことがあると思った。現実的には勝負に勝ち続けるのは不可能に近いから、勝負しないことを選ぶようになっていたけど、それだと何も得られないなと思った。そういう実感があるから、ここに書いたようなことを思うようになった。

 

そもそも物事を勝負として捉えることが良くないとは思っている。それは分かっている。その部分は分かっているし、「勝負」という概念、観念を完全に自分の中から取り払ったとしても、どこかに「負けた」とか「失敗だった」とか「(例えばプロ)に比べて自分は劣っている」のような考えが浮かんでしまうことがよくある。結構不可避的に。皆、そんな風に思っているのだろうか。意外と多くの人が思っているのかも。

 

続く

 

 

 

 

死後の世界での授業

予備校の自習室までの自転車。

普通に漕いでも30分かかり、ゆっくり漕ぐと50分近くかかる。

行きしは40分、帰りは50分かそれ以上かかっている。

スマホを見たり読書もできないとなると、自然といろいろと考えてしまう。

 

今日の帰り道では、死後の世界について考えた。

死後の世界で、人は自分が生まれてきた意味含め、この世界が存在している意味など全部教えてもらえるのだろうか。

死人は皆等しく、大学教授だろうがプロサッカー選手だろうが、大統領だろうが、男でも女でも、貧しい国の人も、富める国の人も、聖者も、悪人も。

皆、「答え合わせ」もしくは「(この世界の真理についての)授業」を受けさせてもらえるのだろうか。

大学教授や一部の研究者みたいな頭の良い人や、一部のお金持ちだけでなく、特別頭の良いわけでも、お金持ちでもない人にも「授業」を受ける機会が設けられていると嬉しい。

誰かは受けられて誰かは受けられないというのは、この世界での教育の機会均等よりも重い意味をもつ。

そこで教わるのは「世界の真理」なんだから。

 

別に、最悪「授業」はなくてもいい。

だれか「恵まれた人だけ」が真理に預かるというのでなければ。

皆等しく、世界について分からないまま死んでいく。

それでいい。それは、ある種の救いだ。この世界(今世というとスピリチュアル感がすごいけど、その今世)では、不平等はどうしようもなくはびこっている。

それはどうしようもないことだから、死んだ後くらいは皆平等にあってほしい。

 

繰り返しになっているかもしれないが、今の気持ち的には「授業」はあってほしい。

皆、等しく「授業」を受けられるならそれは救いになり得る。

 

おわり

 

 

 

 

 

知識習得について偉そうに語る

何回かこのブログやTwitterで書いてるけど、最近財務会計論が分からなさ過ぎてツライ。

 

で、まあそういう期間が長くなってくると「知識を習得するとはいったいなんだ」みたいな抽象的な思考に逃げたくなる。

最近はよく逃げてる。

 

ただ逃げるのももったいないから、忘備録という形で今考えていることを書いとく。

 

勉強をすごく抽象的に表現すると「知識を獲得してそれを適時に外に出せること」だと思う。

 

「知識」よりも「情報」の方が分かりやすいかもしれない。

 

だから「情報を獲得してそれを適時に外に出せること」とする。

 

もっとシンプルにいうと「入れたもの(情報)を出す」ことが(テスト)勉強だってことになる。

 

受験に限って言うと「入れたものを試験会場で出せるようにすること」が勉強となる。

 

こっから分かること。

 

まず、「理解」って究極的には必要ないことが分かる。

丸暗記でも、モノを入れてしまってそれを出せさえすればいいから。

 

でも多分それだと出す段階で詰まってしまう。

頭の中のどっかにはあるけど出せないみたいな状態に陥ってしまう。

 

だからある程度は理解も要る。

 

で、どのくらいの理解が必要かと言うと、それはテストによる。

というより「理解」という言葉自体が必要なくて、結果「出せ」ればなんでも良いと思う。

 

この一点にだけ、つまり「いかに本番『出すか』」にだけ集中していけばいいと思う。

勉強計画を立てるときに。

 

なんか考えがまとまった。

 

おわり

ケツが痛い、目が疲れる

え~、勉強していて「疲れたな~」ってなるときの原因が①お尻が痛い②目が疲れている、のいずれかもしくは両方なのではなかろうかという話。

 

「もう今日は勉強できね~」って思う時、頭が疲れてるって思いがちだし、僕もそう思うことが多かった。

 

でも、最近「これ、頭が疲れてると言うよりも、お尻の痛さと目の疲れを脳が『疲労』と読み替えてるんじゃないか?」とふと思った。

僕が通っている某予備校の椅子はパイプ椅子で、柔らかいとは言い難い素材でできているため、長時間座っているとお尻が痛くなる。

 

そして、僕は通信生だから長時間スマホで講義を視聴する。

 

「この二つが原因か~」と少し腑に落ちた。

 

だって、「もう集中できない」ってなるほど頭使ってないのに疲労度は以上に高かったから。この1年ほど。

 

頭働いてないのに疲労感があるのは、なんというか罪悪感があるというか。

 

これからは気兼ねなく疲労を感じることができる。

 

おわり