IQ研究所

人生の教科書

「本質を見抜く」とは。

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何か分からない事があった時には、頭の中で仮想のメンターに相談するとよい。


卒論関係の事に集中する気にようやくなり、最近は記事を書くことがなかった。

 

別に物理的客観的な時間で言うと全然記事を書く時間はあるのだけど、卒論のことで頭がいっぱいで他の事ができないでいる。

 

卒論のことをするでもなく、かといって何か生産的な事をしているわけでもない時間で

何か他のことができればどれだけいいかなど考えてしまうが、現状自分にはできないことなので、そこは潔く認めて頭が働く時にこうして記事を書きたい。

 

最近よく考えることに、自分の今までしてきた「努力」らしきものは本当に効果的なものだったのか、というものがある。

 

YouTube東大理Ⅲの方や同じく東大の博士の方、京大の医学部の方の話を聴くのにハマっているのだが、彼らの努力の仕方の共通点として、

 

・目標が明確になっていること

・目標と自分の現在地と差を意識していること

 

などがあることに僕は気が付いた。

 

勉強が凄まじくできる方たちは揃って自分の現在地を客観的に把握することの重要性を説いているなと思った。

 

翻って自分はどうかと言うと、結構行き当たりばったりでここまで来たなと言う印象がある。

 

学校の勉強もそうだし、部活にしても、趣味でやっている楽器にしても、その日その日で練習する内容は気分次第で変わってしまうタイプだ。

 

日ごとに練習メニューを考えること自体は別にいいのだけど、それでメニューの立て方に一貫性が欠けてしまっていたかもしれない点が僕の改善すべき点だ。

 

自分の現在地を正確に見極め、目標地点到達のために今やるべきことを日々アップグレードできる人のことを僕たちは「本質を見抜ける人」と呼んでいるのだと思う。

 

その人にしてみれば当たり前のことを継続しているだけなのかもしれないけど、はたから見るとその人は、短期間で物事の急所を押えて、最短距離で目標に迫っているように見えることだろう。

 

でも、その人がしていることを解剖してみると、実は上に書いたように

①自分の現在地の客観的分析

②目標地点までに足りないもののが何か分析

③現在地から目標地点までに行きつくためにすべきことを割りだす

 

の3ステップを高速で回しているのだろう。巷でPDCAというものとだいたい同じだろう。

 

もちろん作業スピードは人それぞれで、そのキャパシティーによって多少は差はできると思う。

 

でも、現在地と目標地点の分析抜きで作業スピードの速さに頼っている人よりも作業スピードは遅いけど分析をしっかりしている人の方が長い目で見れば結果が出るように思う。

 

なんというか、前者よりも後者の方が経験から学んで次の行動をより改善しやすいと思うからだ。

 

方法論は徐々に固まりつつあるので、あとは行動あるのみ。

 

おわり

 

結局確実なものを掴めないまま終わる

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また重いテーマで書いてしまった。


どうせ人は何も確実なものを掴むことなく終わっていくのだ、と大学に入ってから思うことが増えた。

 

人間はかなり「賢い」生き物なのだろう。

 

他の動物と比べても相当「賢い」のだろう。

 

でもそれは過去から現在にかけての地球上に人間レベルの「賢さ」を持った生き物がいなかったということに過ぎない。

 

人類の歴史が何千年続いてきたのか僕はよくわからないけど、僕が生きている間に宇宙の起源とか、死んだあとどうなるのかとか、「生きている意味は何なのか」みたい問いに万人が納得するような仕方で答えが与えられることはないんだろう。

 

そういった類の本当に知りたいことに確定的な答えが与えられること、そしてそのような答えを得られることはないんだろう。

 

こんなことを考えていると、ふと2年ほど前にしたバイトのことを思いだした。

 

そのバイトは、テストを受けるバイトだった。

 

テストを数時間受けて帰るだけ。別にテスト時間中はスマホを触ったり人と話さなければ寝ていてもいいし、ボーっとしていてもいい。

 

僕は、できるだけ真剣に受験しようと思っていたし実際そうした。

 

確かテスト範囲は高校までの数学とか英語だった。

 

英語はそれなりに解けたけど数学は公式を覚えていないと解けない類の問題があり、やる気がそがれた。

 

そのテストのバイトでは自分の解答が合っていたのか間違っていたのかは知らされない。そして、解答冊子のようなものが配られることもなく、丸つけができない事はもちろん、解けなかった問題の答えもわからないままだ。

 

これはテストの難易度を測るのが主催者側の目的であり、バイトの人間にいちいち結果を知らせる意味も必要もないからだろう。

 

でも僕は内心、テストの結果が返却されないと知りながら時間いっぱいテストに向き合い続けられる人などいるのだろうかと考えていた。

 

人が何かに全力で取り組むことができるための条件の一つとして、自分のやったことの成果ができるだけ早くできるだけ分かりやすい形で出てくる、というものがあると思う。

 

その点についていうと、結果の返却がなされず解答も教えてもらえないテストなど、モチベーショが湧くはずがない(もちろんお金がもらえるというモチベーションだけはある)。

 

と、僕はそんな風に思っていたわけで、頑張ったこと・注力したことに対しては何かしらのレスポンスが世界の側から無いと人間って頑張れないものでしょ、と考えていたしそう思うのも自然なことだと考えていた。

 

でもこの考えは「生きる意味とは何か」を考える営み等の形而上学的な思索には、適応できないことが多いことが分かってきた。

 

つまり「生きる意味」が何なのかをどれだけ熱心に考えたとしても、どれだけ渇望しても、世界の側から「生きる意味」の解答が与えられることはない。

 

解答が配られないテストではやる気が起きないでしょと思っていた僕は、人生に解答は配られないという事実に思い至っていなかった。

 

解答が配られる・正しい、間違っているの判断がしてもらえる・頑張りを認めてもらえることが普通と僕は思っていたのかもしれない。

 

確かに、勉強を頑張ればある程度はその分テストで良い点が取れるだろうし、よく働けばある程度はその頑張りに応じて給料も増えるだろう。

 

でも、自分が向かっている「方向性」が正しいのか間違っているのかについての答え合わせはいつまでたってもしてもらえない。できない。

 

「自分の人生を評価するのは自分だ」みたいなことが言いたいのではない。

 

結果的に人はそうせざるを得ないのかもしれないけど、僕がこの記事で書きたかったのは人が置かれている基本的な状況、本人がそのことに意識的か無意識的かにかかわらず人間の生き方を規定している条件みたいなものだ。

 

何かを欲しいと思いそれを獲得するために努力することで、実際にそれを獲得することができる、もしくはその可能性が高まる(=世界の側からのレスポンスがある、解答がある)類の対象がある一方で、人が強く求めても世界の側は一切応じてくれないもの、例えば「生きる意味」などがある。

 

そして、悲しいかな、人がより強く希求しているのは前者よりも後者だろう。

 

そこに人間の悲しみ、苦悩の源泉があるように思う。

 

僕はあくまでこの事実(と僕が考えること)を書きたかった。

 

この事実から「じゃあ自分で意味を作っていけばいいんだ」とか「意味なんてそもそも考える必要ない。解答が配られないテストを受ける意味がないのとおんなじ」

みたいにそれぞれの勝手だ。

 

この事実から、ではどう生きるのが良いのか、について僕はまだ考えがまとまっていない。

 

p.s 何かを頑張る・注力したことに対して世界から何のレスポンスも得られない、という絶望的な状況について考察している本があるので一応紹介しておく。

『シーシュポスの神話』カミュ(著)

 

 おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ特別な人になりたいのか。

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一回はスポーツカーとか乗ってみたい。


特別な人になりたい。

 

誰しも一度は思ったことがあるんじゃないだろうか。

 

僕は多くの人と同じように「普通の人」として波風立てぬように日常生活を送っている。

できるだけ決まり事に抵抗しようとはするけど、最終的には多くの人がすでに通った事のある安全なレールに沿って生きる道を選んでいる。

 

そんな僕でもやはり「特別な人」になりたいと思うことがある。

 

概念自体がぼんやりしている。「特別」とは何だ。

 

僕の中で「特別」というのは「普通でない」というニュアンスに近い。

 

じゃあ、異常な行動をとれば「特別」になれるのかと言うとそうでもない。

 

それではただの「異常者」になってしまうだろう。

なりたいのはあくまで「特別な人」。

 

「俺ってちょっと周りと違うんだぜ」って言っている人を見て痛いやつだなと思う。

 

それは、その人が「特別な人」になりたがってるのに結果的に「異常者」になっていることが多いから。

人よりも優れた点がないのに行動がひとと違っているだけならそれは「特別」と言うより「異常」なだけだろう。

 

僕らは、プラスの方向に突き抜けた存在のことを「特別な人」と呼んでいるのだろうし、僕はその意味で特別人になりたい。

 

人に大切に思われたいから特別になりたいのか。

そうかもしれないと思う。

 

俗にいう「承認欲求」というやつだ。

 

認められたいから人とは違った存在になりたい。

そういう説明だろう。そして、この説明で「特別な人」への憧れの大部分が説明できると思う。

 

でもなんとなく、承認欲求だけでは説明できない部分が含まれているように感じる。

 

思うに、このありきたりで退屈な世界に希望の持てる部分が1ミリでもあればいいのに、という想いが人を「特別な人」へと駆り立てているんだ。

 

もしかしたら大抵の「大人」は、世間で「特別」と言われている人にもし自分がなったとしてもそれはそれで新しい悩みが生じるだろうことには気が付いているのかもしれない。

 

結局よく言われるように、今の自分で満足できない人間は誰になろうと満足できない、のかもしれない。

 

つまり、人にはそれぞれ幸も不幸もそれなりの量があって、幸せオンリーな人などいないのかもしれない。

 

人というものは「ずっと幸せでいる」ことはできない、という条件のもと生きているのかもしれないのだ。

 

そして「特別な人」を求めるというのは、この「ずっと幸せでいることができない」という条件の例外を探していることに他ならない。

 

「そんな例外が存在してほしい」

「もしかするとその例外が自分かもしれない」

 

そんな風に思うことで人は少し楽になるのかもしれない。

 

以上がなぜ人は「特別な人」になりたがるのかについての僕なりの分析。

 

ここから「だから特別なひとを目指す必要はない」などと言うことはしない。

 

誰しもが持っている普通の感情だし、それを無理やり抑え込む必要はないのかなと思う。

 

ただ、その「特別な人になりたい」が「特別な人にならなければ」に変わった時、生きていくことは非常につらくなるかもしれない。

 

その時には、「特別な人幻想」の根底にはありきたりな日常からの逃避願望が隠されていることを思い起こせば、違う形でその願望を昇華させる道を探るなど、他の道を探宇余裕が出てくるかもしれない。

 

ありきたりな日常からの逃避願望を昇華させる方法に具体的にどのようなものがあるか、まだ僕自身獲得できていないし、人のことになるとほとんど何もわからない。

 

だから、一般的にこうすべきだということも書けない。

 

ただただ「特別な人幻想」に押しつぶされそうな人と自分に向けて、何かしら分析の手掛かりになればいい。

 

おわり

 

 

 

ノンストレスでできることなどないのかもしれないし、それでいいのかもしれない。

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保育園に戻りたい


最近またまた天才的なひらめきをした。

 

ノンストレスでできることなどないのかもしれないし、それでいいのかもしれない」ということに気が付いてしまった。

 

このひらめきは現代人を生きづらさから解放する可能性を秘めている、と僕は思っている。

 

まず、僕たちは何かにつけて「ストレス」があることを嫌い避ける。

 

会社の飲み会は上司の愚痴を聞くのが嫌だ。

友達を遊ぶのは楽しいけど意見の衝突は避けたい。

旅行して知らない土地に行きたいが、そこで迷って時間を無駄にするのは嫌だ。

 

などなど、僕たちはストレスのかかることを嫌い、できるだけストレスのかからない生活を日々追い求めている。

 

その結果として、なるべく人と接触しないで済んだり移動しないで済むような便利なシステムが生まれた。

 

Ubereats、Net Flix、YouTubeTwitterAmazonの配達便などのシステムが人々のストレスを軽減していることは確かだろう。

 

これまでもストレスを減らすためのシステムは作られてきたし、これからもその流れは続いていくだろう。

 

では、世の中に便利なシステムとアイテムが溢れるようになって僕たちは以前よりもストレスフリーに近づいただろうか。

 

ここに僕の気づきの出発点がある。

 

もちろんUber Eatsで食べ物を注文できるようになったことで、家の外にいちいち出て行って、飲食店にはいり、店員さんに注文し、帰る前にお金を払い、また家まで帰ってくるというがない分、ストレスを感じる可能性は低くなっているように見える。

 

でも、食事を配達してもらって家で食べているからと言ってストレスフリーかと言うとそうではないだろう。

 

ごはんが配達されてくるのを待っている間に、ふとTwitter・インスタグラムを覗くとそこではリア充やモデル・芸能人の人たちがキラキラした日常を自慢げに披露しているかもしれないし、テレビをつけても同じような光景が待っていることだろう。

 

他の娯楽で時間を潰すにしても人との接触のない遊びは何処となく味気ないものに感じられるかもしれないし、電話する相手を探そうにも常時電話できる相手なんていないだろう。

 

ともすると、どうやって時間を潰そうか考えることにすら僕たちはストレスを感じるかもしれない。

 

「ストレスを感じないための仕組みをうまく使いこなせない事からくるストレスを感じる」という何とも本末転倒な状況にある人も多いことだろう。

 

そして、もっと言うとどれだけ科学技術が発展していっても人間からストレスを完全に取り除くことはできない。

 

よくある思考実験のように、脳に電極を刺して快楽を貪れる状態が永遠に続くならある意味日常的に使われる意味でのストレスはなくなるのかもしれない。

 

でも、ストレスを「欲求不満」と解するなら、人間はストレスから解放されないだろう。

 

脳に電極を刺して快楽を貪り続ける自分を反省的に見てしまった瞬間、自分は何をしているんだと思う人は少なからずいるはずだ。

 

きっとその人は自分の生きている意味を問うだろう。

 

この世に生を受けたは良いものの、快楽を貪るだけの存在と化している自分を顧みて

その人はもしかすると現代人よりもより強い「ストレス」を感じるかもしれない。

 

このようにどれだけストレスを排除しようとしても人間にストレスはつきものだ。

 

ストレスを欲求不満と言い変えてもいい。

 

僕はこの事実をどうしても受け入れられなかったけど、もうそろそろ受け入れたい。

 

何故なら、そのことを受け入れて生きていくしか道はないから。

 

「人間にストレスはつきものだ」みたいな命題をどうしても受け入れたくない僕みたいな人が共通して持っているだろう価値観に、ストレスのある生活はストレスが全くない生活よりも悪いというものがあると思う。

 

僕はこの価値観を自明のものとして生きてきた。

 

そして、よりストレスの少ない生活を希求し、ストレスが0になることは無いという事実にいつも絶望し、それを受け入れないまま生きていく道を探していた。

 

この考えについて最近思うこととしては、「ストレスが0の生活」が何なのかを自分でもわからないまま、それを探している気になっていたなあというものがある。

 

何かを「探し」「求める」時、その対象がある程度何なのかを掴めていないとそれを探し続ける事はできない、ということに気が付いた。

 

「W杯で優勝する」という目標は到底達成できないほどに困難で、もはや目標として機能しないほどに遠い目標と言っていい。

 

だがこの目標が目標たり得るのは、あくまで「W杯で優勝する」ことが何を意味しているのかを人間に認識できるから、という点に存する。

 

つまりどれだけ達成困難に見える目標でも、その目標が意味しているところが具体的にイメージできるならそれは目標として機能し得る。

 

その点において「全くストレスのない生活」を僕は具体的にイメージすることができていない。

 

どれだけお金持ちになっても、美人と付き合っても、ノーベル賞を受賞しても、僕の中からストレス・欲求不満は完全に消え失せるということはなさそうだ。

 

つまり「ストレス0の生活」は現時点では少なくとも僕にとっては想像不可能なものだった。

 

思うにこの「ストレス0の生活」を想像することはどの人にとっても不可能だろう。

 

人間という存在を構成しているもののうちに、ストレスであったり欲求不満があると思うからだ。

 

人間が言語を使って思惟する以上欲求不満からは逃れられないというのがこの直観の底にはあるのだけど、それはまた次の機会に書く。

 

ここまでで、「ストレス0の生活」など存在しないであろうことを見てきたが、僕はそれを受け入れていきたい。

 

さっきも書いた通り、積極的に受け入れるというよりは世界がそうなっているから仕方なく、というのに近いが。

 

いずれにせよマインドとしてはこれで多少は「前向き」と言われるものに近づいていくだろう。

 

おわり

不満足な豚

 

最近いろいろと活動するための気力が湧かない。

 

 

izunox.hatenablog.com

 


この記事でも少し触れていた(はず)だが、大学に入って以降何もやる気が起きない期間が頻繁にある。

 

かれこれ3.4年ほど(学生特有の?)無気力状態と付き合ってきた。

そしてその経験からモチベーションの死はその人の死に直結すると考えるに至った。

 

僕らが生きている時代は「モチベーションの時代」だと僕は勝手に思っている。

 

教育の機会や社会進出の機会に十分恵まれているとは言えない人がいる一方で、ひと昔前に比べれば多くの人にそれなりに「成功」のチャンスが行きわたっている、とされているのが今の日本だ。

 

だからこそ、最低限の生活の保障以上の不平等の是正はなされない。

アカデミックな場でもない限り、成功者と敗残者の格差はの原因は敗残者の自己責任として片づけられることがほとんど。

 

負ける人間には「やる気」が欠けている。

環境は整っているのだから、「モチベーション」を上げてことに当たれ。

 

令和の日本ではこんな言説を毎日のように耳にし、目にする。

僕は正直これらの言葉に反感を持って生きてきた。

 

何故かと言うと僕自身にモチベーションが欠けていたから。

 

特に何をしたいということもなく、なんとなく大学に入学し、なんとなく大学生活を送っている自分としては、「モチベーションの欠如=負け」という図式は認めたくないものだった。

 

だが、「モチベーションの欠如=負け」図式への反抗を続けたこの3~4年間で僕が得たものを振り返る時、この図式が相当程度現実の世界を写し取ったものであることを認めざるを得ない。

 

「「モチベーションの欠如=負け」図式への反抗」がどういうことを意味しているのかと思う人もいるだろう。

 

僕自身もこれだと定義できていないが、おおむね「モチベーションがあること=善」みたいなものへの反発と捉えてもらえばいい。

 

別にやる気なく生きていても良いじゃないか、高いモチベーションが湧かなくてもいいんじゃないか、という考え。

 

結論から言うと、さっきも書いた通り僕はこのささやかな抵抗をして得たものがほとんど無い。

大学生活で何かを得たとすれば、その時は無理をしていたかどうかはともかく、自分から何かをしようと世の中に働きかけていた時であったと事と言える。

 

モチベーションが湧かなくても、それで自分の人生にある程度満足していればそれでいい。

 

僕の場合は、モチベーショが湧かない、かつ日常生活にまったくと言っていいほど満足できていない。常に欲求不満にあると言っていい。

 

ここには大きな問題が潜んでいる。

「モチベーションが湧かない」くせに「欲求不満」ではあるのだだ。

 

モチベーションが湧かないと言っているのだったら、その現状に満足できてもよさそうなものだが、少なくとも僕の場合は口では「何もやりたくない」と言っておきながら頭の中は常に欲求不満で支配されている。

 

この不可解な事実を前に数年間生きてきたが、僕はあることに気がついた。

自分はモチベーションが湧かないとか言っているけど、それは結局はリスクを取ってチャレンジすることを恐れているだけじゃないのか、と。

 

まあ、本音を言うとこれに気がついてはいるものの、それを認めなかったという方が正しい。

 

世間には文字通り「何もしたくなく」、それで別に欲求不満にもなっていない人は一定数いると思う。

 

僕もその一人だと信じ込もうとしていたが、どうやら僕は欲求はあるにはあるけどそれを満たす事だ出来なさそうだからその欲求をなかったことにしていたようだ。

 

彼女が欲しい→NO、美味しいものが食べたい→NO、お金持ちになりたい→NO、良い車に乗りたい→NO、、、といった具合に、僕は考えられるあらゆる欲求を否定してきた。

 

そして結果的に「何もしたくない」人間になった。

 

もう少しで終わるから僕の話に耳を傾けてほしい。

 

この世の中にあるもので、「欲しいな」「羨ましいな」と思うものはたくさんあるだろう。

 

では、それを「なぜ」欲しいかと言うと説明できる人が何人いるだろう。

 

「何もしたくない」病に罹患する手前の僕はここに目を付けた。

 

すなわち、自分が欲しいと思っている物のうち大抵のものは「何故それが欲しいのか」という問いの前に無残にも消え去っていく、ことを利用した。

 

例えば、彼女が欲しいとふと思ったとする。

 

その時僕は次の問いを自分に投げかけるわけだ。

 

「何で彼女が欲しいのか?」と。

 

冷静に考えればそんな問いに明確な答えが出せるはずがない。

 

おおかた「なんとなく」とか「人恋しい」とかだろう。

 

そして、そんな答えしか浮かばないことから僕は

 

「あ、やっぱり自分はそこまで彼女ほしくないんやな」

 

と謎の確認を自分に取っていた。地獄の自問自答である。

(あくまで「彼女が欲しい」云々は一例であることに注意)

 

そんな自問自答をことあるごとに繰り返してきた僕には、必死に頑張って獲得したいものが一つもなくなっていた。

 

獲得したいものが何もない状態、つまり「何もしたくない状態」は本来の意味でたどり着ければそれは最高の状態だろう。

 

ブッダとか偉大な哲学者たちの言うところの境地は「何もする必要がない」状態なんだろうと思うが、それは精神的に満ち足りているが故に物質的にこれ以上のものは必要ないし、当然自分もそれらを欲することがないという状態だ。

 

その意味において「何もしたくない(する必要がない」にたどり着ければ幸せだ。

 

僕もそこを目指しているはずだったけど、結果的に凄まじいまでの不満足の中にいる。

 

「満足している豚になるくらいなら、不満足なソクラテスになる」という言葉がある。

 

これは、肉体的な満足よりも精神的な満足の方がより人間的な満足の仕方であって、人間は前者にとどまることなく後者も求めるべきだということを表現した言葉だと理解している。

 

僕は、満足している豚になることを忌み嫌った結果、不満足なソクラテスにもなれずに

 

不満足な豚になっていた。

 

ほんと何なんだよって感じだ。でも気づけて良かった。

 

「何もしたくない」と考えることの危険なところとして、方向転換がしにくいことがある。

 

「何もしたくない」と思っている時、僕は少なからず自分が高尚な人になったように感じていた。

 

ガツガツしてない自分がなんだかすごい偉い人のように感じている節があったと思う。

(少し悪く書きすぎか?)

 

欲求不満があるにも関わらず、「高尚な自分」という自己イメージを捨てたくないがために「何もしたくない」人間になったいたところがある。

 

だからこそ、一度「何もしたくない」状態になると「何かをしたい」と思いにくい。

 

たとえ自分が「不満足な豚」になっていることにうすうす気が付いても、高尚な自分像を捨てたくないがために、その状態に固執することになる。

 

ここまでの書きぶりから、僕は「何もしたくない」病を克服したと思われたかもしれないが、まだ今後どうなるかは僕にもわからない。

 

現在僕がいるのは、一応自分の「症状」を言葉にすることができ始めたという段階だ。

 

人はすぐには変われない。でも着実に変えていく。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ギリシア語初級を履修し、精神修行の時間にあてた話

 

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ギリシア語ってだけでカッコよくない?

今学期、半期だけギリシア語を履修した。

いろいろ思うことがあったので忘備録として書いておく。

 

まず、ギリシア語初級を履修した動機だけど、完全になんとなく。

 

2年前に1年間ラテン語を習ったときも完全になんとなく。

その時も毎週の小テストがしんどかった覚えがあるのに、今回も懲りずに古典語を履修。

 

今回は『イーリアス』とか『オデゥッセイア』など、高校世界史で習い名前だけは知っている作品を原語で読んでみたいな~とかちょっと思ってた。

 

まあ、実際にはギリシア語に打ちのめされて、古典作品を原語で読むどころか、教科書の練習問題すらも満足に解けなかったんだけど。

 

今期はコロナの影響で今対面授業がなく、3か月間zoomを使っての授業。

 

授業の前半30分ほどをかけて先生が教科書の説明をして下さり、残りの時間で解いてきた練習問題の発音の確認などをするという形式。

 

オンライン授業という慣れない形式のなか、先生はすごく丁寧な授業をしてくださった。

 

毎週、教科書の各章の最後についている練習問題を解いて提出するのだけど、先生は学生全員分の課題の答え合わせをして返却してくださった。

 

それくらい丁寧に授業をしてくださったのにも関わらず、冒頭で書いたように僕は練習問題を解くのにも非常に苦労する状態から抜け出すことができなかった。

 

毎週10問ほどの和訳問題が課題として出されていたけど、僕はその課題に、少なく見積もっても5時間かそれ以上かかっていた。

 

単純計算で、1問30分以上。

 

使っていた教科書はこの教科書

 

古典ギリシア語初歩

古典ギリシア語初歩

  • 作者:水谷 智洋
  • 発売日: 1990/11/27
  • メディア: 単行本
 

 

 

その和訳問題は例えば日本語に直した時に「詩人たちはムーサに仕える」になるような文章で、英語でいえばたぶん中学生の教科書レベルだと思う。

 

難易度はある程度文法・単語が分かる人からしたらそんなに高くないんだろうし、1問の長さも上に書いたように長くないものがほとんどだ。

 

僕はこれらギリシア語の文章と毎週格闘したけど、結構つらかった。

 

何がつらいって、単語の意味が分からない時に延々と教科書内をさまようことになること。

 

大抵は練習問題の後ろに初出の単語の意味は載っているのだけど、2回目以降その単語が登場するときには意味は載っていない。

 

だから、各練習問題の後ろの単語の意味を求めてウロウロすることにえらく時間を取られた。

 

次に、名詞・動詞・定冠詞などの変化の規則が最後まで頭に入ってこなかった。

 

ギリシア語、ラテン語などの古典語に限らず語学学習には語の変化を覚える作業が伴うのが普通だ。

 

ギリシア語は名詞・動詞・形容詞が格(日本語でいう「~は」「~の」など)、性、数に対応して変化していく。ラテン語と一緒だ。

 

先生はこの変化の仕方を丁寧に教えてくださったのに、僕はいつもの悪い癖であとで覚えようとしてしまった。

 

結局、動詞や名詞があるごとにそれらしき単語が載っている変化表に戻って、その単語が何格なのか(訳すときにはこれが重要)を推測する作業に追われた。

 

変化表と変化の仕方の原則みたいなものが頭に入ってないから、どれだけその作業をしても頭に残るものはなく、ただただ形態が似ている単語を識別する、という人工知能の画像認識のような事になってしまった。

 

新しいことを始めた時の自分の悪い癖として、「適当にやっているうちになんとなくコツつかめてくるか」と安易に思ってしまうことがある。

 

これを僕は「演繹的ではなく帰納的に学ぶ」状態だと呼んでいる。

 

アバウトな説明をすると何かをするときにその対象の法則性に常に気を配る姿勢が「演繹的」な学習姿勢で、法則性にそこまで意識的にならないのが「帰納的」な学習の姿勢と言える。

 

演繹的な姿勢を持っている人は何かをするときに自然と仮説を立てて実際のデータからその仮説を検証している。

 

逆に帰納的な姿勢で向かう人は、割と行き当たりばったりと言うか、いい結果が出れば「やったー」ってなるし、悪かったらなんとなく落ち込む。

 

そしてその原因と対策を考えず次の問題に当たって、運が良ければ解けるし運が悪ければ解けないを繰り返す。

 

まあ帰納的な姿勢は一見悪いことばかりみたいだけど「自分のことを客観的に見て、自分と向き合うことを避けられる」というメリットがある(笑)。

 

だから僕はここまで帰納的な姿勢を崩さなかったし、また痛い目にあった。

 

語の変化の規則はもちろん「法則性」「原則」に当てはまるもので、演繹的な姿勢を持つ人なら当然見逃さない項目だろう。

 

その一週間が大変だったとしても、動詞の変化を教えてもらった週は集中してその変化を覚えきってしまっているだろう。

 

演繹的な姿勢を持っていう人というのは、法則・原則・規則を出来るだけ早くしっかりと抑えてしまうことが後々自分を自由にするということをしっかりと認識しているのだろう。

 

行き当たりばったりで勉強していた僕は、いつか勝手に変化表も頭に入っていることだろうと高をくくっていたけど、最後までその知識が定着することはなかった。

 

いろいろ考えた半期であった。

 

おわり

 

 

人を羨ましく思うことは無意味だと悟った

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聖人みたいなこと書いてしまった


解脱しかけている。

 

僕は先日、銭湯の湯舟につかりながら悟りの境地に至った。

 

「もうこれから人を羨ましがることはやめよう」

 

本気でこのように思った。少なくとも人を羨ましがって自分の人生を生きることが無いようにしようと思った。そして、今もこの考えは変わらない。

 

もともと僕は(少なくとも大学に入って以降は)人の事を羨ましく思うことが多かった。

 

世界的に有名なスポーツ選手に嫉妬していた事もあるし、何故自分はアインシュタインみたいになれないのだろうと本気で思っていたこともある。

イケメンを見た時には、自分もあんな顔に生まれたかったなと思う事が多々あった。

 

そういう「恵まれた」人になりたいなと思ってきたわけだけど、先日ふと、もうそういう風に考えるのはやめようと思った。

 

たぶん前期分のレポートが終わり心の余裕が多少生まれて、これまでの考え方を反省できたのだろう。

 

ところで、ある人が「~(スポーツ選手・学者・アイドルなど)のことが羨ましい」と感じるとき、その人の真意はどんなものだろうか。

 

「~(スポーツ選手、学者など)そのものになりたい」と答える人もいるだろうけど、実際には「~が持っている(運動神経・学力・綺麗、カッコいい顔・社会的地位などの)スペック・能力が欲しい」というのが真意ではないだろうか。*1

 つまり僕たちは誰かを羨ましがっている時、その人自身になりたいのではなく、あくまで自分は自分のままで、その人が持っているのと同じ程度の能力(顔の良さ、地位もひとまとめに能力とよんでいる)を欲しいと思っているはずだ。

 

ここで言っていることはこういうこと。

僕たちはなんとなく「~になりたい」と思ってるけど、その内実はその人自身になりたいというよりは、その人みたいになりたいというのに近いのではないかということ。

今の自分の記憶、経験抜きにその人自身に変身できたとしてもそれはもはや「自分」ではないから。

記憶を一旦リセットして、その人に変身したとしたら、それはその人として生まれたことと実質的に変わりがないから「~に変身する」というのがあまり意味のない表現であることもわかる思う。

 

話を戻そう。

僕たちはある人の能力であったり、容姿であったり、出自を羨む。

そして、それは何故かと言うとたぶんだけど、そういった能力なり恵まれた環境を獲得できれば幸せになれると思っているからだろう。

 

イケメンになればモテモテになって、運動神経がよければスポーツ選手として活躍できるかもしれないし、頭が良くなれば学者として後世まで名前を残すことができるかもしれない。そんなことが可能なら確かに嬉しいだろう。

 

ここで重要になってくると思われるのは、人間がどのタイミングで幸福を感じるのかと言うこと。

 

幸福感にもいろんな種類があるけど、誰かを羨ましく思っているときに追い求めている類の幸福感を、実際にその人が感じるとすれば、それはその人が「変化」を感じた時だろう。

 

年収が上がったタイミングや、恋人ができた時、試験に合格した時など、ポジティブな変化の瞬間に感じる幸福感をより大きく得られるようになるはずだと思うからこそ、僕たちは「~になりたい」「自分も~みたいだったらいいのにな」と他人を羨ましく感じる。

 

このように、変化と幸福度を結び付けて考えるなら、変化する前の自分から変化後の自分へ移行した直後に「幸福度」は最高になると考えられる。

 

そして、よく言われていることだけど幸福度と言うのは、一度大きく上がっても時間とともし逓減する、すなわち徐々に下がってくる。

 

喉が渇いている時に飲むキンキンに冷えたコーラは一口目が最高に美味しくて、二口目、三口目と徐々にではあるけどそのおいしさは減少していくことを思い起こしてもらえれば分かりやすいと思う。

 

有り余るほどのお金も、誰もが振り向くような容姿も、プロを目指せるくらいの運動神経にも徐々に人間は慣れてくる。

正確に言うと、それらの能力によって得られる幸福感に人間は次第に慣れてくる。

 

そして、たぶん数年もすればその幸福感に慣れてきて、いろいろと不満に感じることも増えてくるはずだ。

 

僕たちが羨ましがっている人達に悩みがないかと言うとそんなはずはないし、僕たちが彼らの能力を手に入れたとしても、僕たちは能力を手に入れた上で何かしら悩みを見つけるだろう。

 

「そうは言っても今の自分と、億万長者・イケメン・プロスポーツ選手の悩みは質が違う。悩みがある事は同じかもしれないけど、彼らの悩みはよりレベルの高い贅沢な悩みだから羨ましいんだ!」と言う人もいると思う。もっともなことだ。

 

僕もこんな風に思っていたけど、最近少し考え方が変わってきた。

僕みたいな平凡な学生でも、億万長者でも、国民的アイドルでも、世界的なプロスポーツ選手でも、取り組んでる問題は実は似たり寄ったりなんじゃなかろうかと考えるようになった。

 

その「皆が取り組んでいる問題」と言うのは突き詰めて考えれば、孤独であったり、自分を認めてほしいという思いであったり、虚無感とか満たされなさ、死への恐怖などではないだろうか。

 

これらの人生における問題・課題はその人がどんな境遇に置かれていてもほとんどの場合付きまとってくるもので、かなり普遍的なものだと言える。

 

お金持ちになれれば、イケメンになれれば、運動神経がズバ抜けてよければ、

今ある悩みから完全に自由になれるのに思ってしまうことがあるかもしれないけど、そんなこともないだろう。

 

「お金持ちはお金持ちで苦労してんのよ」と言われるように、何かに恵まれてある悩みが消えれば、新たな悩みが生じるという意味でも悩みは尽きないだろうし、どんな境遇にあってもずっと残り続ける類の普遍的な悩みが人間には付きまとっているという意味においても悩みはなくならないだろう。

 

もちろんだからと言って、何かを目指すことが馬鹿らしいということにはならない。

 

さっき書いたように、自分の出来ることが増えることによって悩みの質が変わってくる部分があると思うが、その「変化」は楽しいことだろうし、心地いいものだろう。

「変化」からくる幸福感ばかりを追い求めることは人生のコアの部分の課題をないがしろにすることにもしかしたらつながってしまうかもしれないけど、何かを目指すことそれ自体は人生に活力を与えるだろう。

 

要は、何かを目指す過程で他人の事が羨ましくなって、そこにエネルギーを持っていかれるのはもったいないということ。

 

すごく月並みな結論だ。でもこの結論が出てくる過程が僕としては大事だ。

 

こんな偉そうな事を書いているけど、1か月もすれば人のことをすごく羨ましく感じているかもしれない。

 

と言うか、80%くらいそうなりそうだから、その時にはまたその時の考えを書きたい。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

*1:

顔については分かりにくいので補足。

イケメンになりたい、可愛くなりたいと思う時、完全に顔を変えてしまって実在する芸能人の誰かと同じ顔になっても嬉しくないだろうから、「芸能人の~みたいになりたい」と言うのは「ある芸能人~が持っている綺麗な顔と同じくらい綺麗な顔が欲しい」と翻訳できると思う。