IQ研究所

人生の教科書

勉強記録① 11/6~8

11/6(金)

財務会計論 

・基本テキスト⑤ p.258~275(財務会計論BMⅠ第11回分見直し)

・トレーニング⑤ 11-8・9・10・11、12-1・2・3

 

資格の勉強を久々にした。

手帳を見る限り8月30日を最後に資格の勉強から離れていた。

2か月以上離れていたことになる。その間は卒論に取り組んでいた。

今後も卒論を提出し終えるまでは資格の勉強から離れることもあるかもしれない。

2か月振りに勉強したにしてはそれなりに内容を覚えていた。

と言うより、2か月前の定着度が低すぎて、落ちる幅がそんなにない。

それにしても会計の勉強が楽しくない。

 

11/7(土)

財務会計

・基本テキスト⑤p. 273~279(講義⑪を見ながら見直し)

 

明日は財務会計論11回目の講義のレジュメをプリントアウトするところから始める。

 

11/8(日)

管理会計

管理会計論 基礎マスター講義⑫視聴

監査論

・監査論 上級講義①(3/2まで)視聴

 

良くも悪くもなし。

そんなに集中はできていない。

 

 

本物の”プロフェッショナル”に対して、嫉妬してしまうっていう話

 自分の良くない点を一つ挙げろと言われたら、「人の良い点を素直に認められない点」を僕は挙げないといけないかもしれない。

 

 なんというか、認められないんだよな。確実に相手の方が上回っていると分かっている場面であっても。というか、なんなら相手の方が「確実に」上回っていると分かっている時のほうが、その凄さを真正面から受け止められない。

 逆に、まあそれなりにすごいんだけどって時は案外すぐに褒めたりする。だから日常的に付き合う人とかにそこまで嫉妬とかはしない。

 たとえば浅田真央とかメッシとか藤井聡太に嫉妬する。松本人志とか島田紳助とかに嫉妬する。他、自分がピアノを弾くのが好きなこともあって、ピアニストのほとんどが嫉妬の対象になっている。もちろん、嫉妬するほどに好きってこと。好きを通り越して嫉妬してしまうっていう。

 特にピアニストとスポーツ選手と棋士なんだよな、僕の嫉妬の向かう先は。その中でもピアニストに一番嫉妬を感じるかもしれない。

 なんていうか、ピアニストって、求められる技術の細かさが、数ある職業の中でも最高峰な気がする。幼いころから毎日欠かさず練習してきたんだろうなということをビシビシと感じさせる何かがある。

 その点は、棋士も割と似てる。棋譜をどれだけの数読み込んできたのだろうとか、どれだけの詰将棋を解いてきたのだろうかとか、その棋士の「歴史」みたいなものが(勝手に)見えてしまって、つらくなる。

 

 うん、たぶん、この「歴史」なんだよな。僕がつらくなる原因は。どうしたって今からじゃ取り返せないほどの蓄積がこの人たちにはあるんだ、っていうことを感じさせてくる彼らの歴史。今からじゃどうしようもないからこそ、凄いと思う。思ってしまっている。

 

 でも、この凄さを認め切らない自分もいる。それが厄介だ。完全に彼らの技に関心仕切ることができない。99%関心しているけど、心のどこかで1%「まだ負けたくない」と思っている。ほんと怖い。

 

 いつまでこういう気持ちが続くのか分からないけど、でもその気持ちが続くうちは、それでいいとも思っている。そして、完全に彼らをすごいと認めて、技を楽しませていただくことに100%集中できるようになった時には、僕は誰かのファンとしてその人を心から応援できるだろう。

 

 みんなこういうことは表立って言わないだけじゃないかな、とか思う。だって「藤井聡太にもメッシにも負けたくない」とか言ってたら変人だし。

 もちろん僕も彼らの土俵で勝てる気はしないのだけど(と言って他の土俵で彼らほどの活躍ができるのかは相当怪しい)、なんというか「まだあきらめたくない」と言うことなんだと思う。

 何キッカケであきらめるのか、そもそも諦める/諦めないという二分法がこれに当てはまるのか、分からない事は多いが、22歳現在こういうことを思っているということで。

 

おわり

 

 

お笑い芸人はカッコいいよねっていう話

 卒論もひと段落ついた(と思いたい)のでさっき思いついたことを思いつくままに書く。

 

 唐突だが、僕は結構前から「何で男ってお笑いすきなんやろ」と思ってた。

これはほぼ間違いのないことだが、男友達のグループが1つあったら、そのグループの中に確実に一人は「お笑い好き」がいる。

 彼らは輪の中心で自ら笑いを生み出すタイプである場合もあるし、芸能人やクラスメイトの笑いを評価する「評論家」タイプの場合もある。

 彼らは他の男よりもお笑いについて高い関心を持って生活している。でも、他の男がお笑い、と言うより「どうしたら面白くなれるか」に対して関心が無いかと言うとそんなことはなく、一定の関心はほとんどの男が持っているように思う。

 女の人の事情に関してはそこまで分からないから、話を男に限定するけど、男で完全に「面白くなくていい」って思っているやつなんてほとんどいないように思う。

 

 何でか分からないけど、「面白い」って、なんか特別な感じがするんだよな。

「賢い」とか「運動神経が良い」とか「仕事できる」とかとは、少し違う。

 賢くなくても、運動神経良くなくても、面白いやつっていうのはそれだけで「なんかすごい」ってなりがち。歳を取るごとに、役職がどうだとか、年収がどれくらいか、なんてことがその人を測るものさしになっていくのかもしれないけど、お金をどれだけ稼げるかがその人の魅力を測るものさしに成りにくい一方で、面白さって言うのはその人の魅力を測るものさしに成り得る。偏見だけど。

 面白さがその人の魅力を測るものさしになるっていうのは、個人の感想かもしれない。けど、でも割と多くの人が持ってる感覚なんじゃないだろうか。

 

 そして、ここからが本題だけど、「お笑い芸人」っていう職業ってかっこいいよねっていう。なりたいとかそういうことは全くないけど、なんかかっこいいよねっていう。

 不思議なんだよな。この感覚が。 

 医者でもなく、弁護士でもなく、パイロットでもなく、ミュージシャンでもなく、「お笑い芸人」がカッコいいという。

 いや、誤解をされると困るから、先に書いておくと、他の職業でもカッコいいと思う職種はあるし、何ならどの職種でもカッコいい場面とか、カッコいい人というのはいると思う。あと、別にお笑い芸人が一番カッコいい職種だ、と言うつもりもない。ただ、他との比較ではなくって、「お笑い芸人」という職種がカッコよく感じられるのかという分析、的な。

 クリエイティブな感じがする、と言うのが一つあるのかなとは思う。でも、それだと作曲家でも、映画監督でも、小説家でもクリエイティブな職業だぞ、ということになる。

 じゃあ、なんだと。たぶん、クリエイティブなことはクリエイティブなんだけど、そのクリエイティブさの発揮の仕方が独特なんだと思う。

 作曲家がクリエイティビティを発揮するのはその人が作る曲の中であり、テレビマンは映画、小説家は小説の中。

 一方のお笑い芸人は、その人の喋り方であったり立ち居振る舞いにクリエイティビティを発揮させないといけない。そうでないと生き残れない。

 お笑い芸人はだから「その人」と「その人のクリエイティビティが発揮される場所」が最も近い場所にある職業の一つと言えるんじゃないだろうか。

 他にも「その人」と「その人のクリエイティビティが発揮される場所」が極端に近かったり、もはや距離が0になってる職業はたくさんあると思う。例えばスポーツ選手とか、作詞作曲をする歌手とか、講演家とか。

 でも、彼らの仕事っていうのは、お笑い芸人に比べると、よくもわるくも、枠があらかじめ決められているように感じる。完全な偏見だけど。

 スポーツ選手はルールの範囲内で競技をするし、歌手は歌うし、講演家は講演する。一方のお笑い芸人はと言うと、彼らは「笑いを取る」ことでテレビ的にOKなことなら、ほとんど何をしてもいいだろう。そこは他の職業とは違うところだろう。

 結局、「その人自身が評価されている」と感じるから、お笑い芸人に憧れる人が多いのかもしれない。その人の持っている能力が評価されている、と言うよりもその人自身が評価されている、みたいな。

 「めっちゃ美人ですね」って言われ続けてきた人の中には、だんだんと「私自身を見て!」って思うようになる人もいるらしい。外見だってガッツリその人じゃんって思うけど、その人は自分の内面を見てほしいと思ってそういっているのだろう。

 一方で、「ほんとお前は面白いやつやな!」と言われ続けてきた人が、「私自身を見て!」となるだろうか。なんとなくではあるけど、なりづらそうに思う。僕はそんな風に感じる。完全に個人的な感覚。

 その人自身の、しかも内面が評価されている、と感じるから、そういう職業に憧れるし、できれば自分もそういうポジションにつきたい、なんて思うのかなという話。

 

 ここまで書いてきた感じ、お笑い芸人を手放しに賛美してしまってる感が無くもないな。自分自身別にお笑いに詳しいわけでも何でもないし。お笑いを志していたわけでは全く、断じてないし。

 「お笑い芸人」っていう括りで書いたから良くなかったのかもしれないな。

 僕は単に、「面白い」っていうのは他の能力とはちょっと種類がちがうなって言うことを書きたかっただけだから。でもその説明にお笑い芸人を持ってくるのは必要か。

 

締め方が分からないので終了。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

世界との「引っ掛かり」が必要

少し前の記事で現代社が「モチベーションの時代」であることに軽く触れた。

 

 
izunox.hatenablog.com

 


この世界はいつの時代も意欲の無い者には厳しいものだっただろうけど、モチベーションの有無以外の要素が均一化されつつある現代においては、モチベーションの有無がその人の「成功」にクリティカルな意味を持つ。

 その意味合いで僕は現代を「モチベーションの時代」と名付けた。

 この記事で書くのは「モチベーションの時代」に生きる中で僕が感じている虚無感が何に起因するものなのかについてだ。

 その説明の中で、僕が二十数年間生きるなかで構築してきた世界理解みたいなものも紹介できればと思う。

 

僕は大学に入学して以降ことあるごとに虚無感を抱くようになった。

 最初はその感情が虚無感と呼ばれるものだとは分からなかったし、今も確信はないけど、「胸の中が空っぽ」という表現がシックリくるから、これが虚無感なんだろうなと思っている。

 この感情を持ち始めたのは大学に入学してすぐの頃だった。

 受験が終わり、いわいる燃え尽き症候群になっていたのだろう。

講義を受けたりバイトをしたり課外活動をしたりしても、心の中が「空っぽ」だった。

 それは今も変わらないし、ここ数年でその空虚さはどんどんひどくなっている。

 

そして自分の虚無感の原因をいろいろ考えてみて、何かしらの「引っ掛かり」が欠けている人は空虚感に襲われるのだろうなという考えに至った。

 

「引っ掛かり」というのは「強制力」と言ってもいいと思うし「強い意志」と言ってもいいかもしれない。とにかくこの世界において人々に進む方向と推進力を与えるものを「引っ掛かり」と呼びたい。

 

 なぜこの「引っ掛かり」が必要なのかと言うと、それはこの世界がある意味「のっぺらぼう」になっていて、何らかのきっかけや指針が無いと人はどこに進んでいいか分からないしどこかへ進んでいこうという意欲もわかないからだ。

 

「世界がのっぺらぼうである」とは、つまり万人が認める究極の正しさ・善さが無いということだ。究極的な「生きる意味」を求めてもこの世界にはそのようなものは何処にも置いてはいない。

 

 あくまでこの世界は無色透明でのっぺりした世界だ。

 

 その世界に起伏を見出してどこかに「ゴール」を設定できはするけど、かといってそれは「究極の」ゴールではなくて、現在生きている多くの人が目指しているゴールか自分が勝手に目指しているゴールかのどちらかだろう。

 

 そして社会が規定したゴールであったとしても、自分が決めたゴールであったとしても、人々はそのゴールにたどり着いてなお「だから何なんだ」と問うことができてしまう。

 

現代思想みたいなものに僕は特別詳しいわけではないから詳しいことは分からないけど、近代的な科学観と自由主義の浸透が人々を「自由」にした一方で人々から精神的な拠り所を奪ったということはある程度確かなことだと思っている。

 

 近代的な科学観いうのは端的にいうと科学万能主義とでも言えばいい考え方で、自然はいつかは人間にとって究めつくされるだろうし、少なくともそれまでには自然はコントロール可能なものになっているだという観測がこの主義主張には含まれている。

 

 近代的な科学観は現代人の多くの人が無意識に信仰している宗教のようなもので、結果的に現代を生きる人は素朴に「神」や「あの世」や「運命」の存在を信じることができなくなっている。

 

 近代的な科学観が僕らを自由にしたというのは、その科学観から生まれた種々の技術が人々にそれまでできなかったあらゆることを経験可能にしたという意味だ。

 

 一方で、近代的な科学観はそれまで人々が素朴に信じることができていた「神」や「あの世」や「運命」の存在に疑問を生じさせた。

 

 近世ヨーロッパで起こった戦争、革命の多くが宗教的な問題に(少なくとも建前だけでも)起因していることからもともと宗教的信仰が人々の人生観に深く影響を与えていたと言えよう。

 

 その点で多くの現代人にとっての「神」や「あの世」はお墓参り・初詣・クリスマスのような行事の中に形式的に残っているものであり、近代科学の発展以前のように素朴にその存在を信じることのできる対象ではなくなっていると言えるのではないだろうか。

 

 そして、「神」や「あの世」などの超越的な存在を素朴に信じられなくなった人々は、善悪の絶対的な基準を失ってしまい生きていく指針を失った。

 

上記の「(科学の発展が)人々から精神的な拠り所を奪った」が意味するのはこのような事態のことだ。僕はこんな風に現代という時代を捉えている。

 

 そして、このような「のっぺらぼう」な世界、つまり同時代の人々の間でさえ共通のゴールが共有されておらず、各人が設定するゴールがそれぞれ相対化されてしまった世界に生きている人々にはできるだけ大きな世界との「引っ掛かり」が必要になる。

 

 つるつるすべすべとした世界、「どれでもいいんじゃない?」「良いも悪いも人それぞれじゃん」が合言葉のこの時代において、人は妄執でも何でもいいから方向性を求める。

 

そんな時に世界との「引っ掛かり」があると便利だ。それが良いことかどうかは別にして、人に方向性を与えてくれる。

 

例えば、医者の両親に幼いころから医者になるように言われてきたAさんがいるとする。

 

 両親の思いが強ければ強いほどAさんは進路選択においてその「自分は医者になるべきだ」という世界との引っ掛かりを軸に物事を考えていくことになる。

 

 Aさんが親の意向に従い医学の道を志す(目標の受容)としても、またはAさんが親に反発し他の道に進む(反発)としても、その選択は「医学の道に進むべき」という所与(すでに与えられている)「引っ掛かり」への反応あってのことだ。

 

この例とは逆のパターンを考えてみたい。

 

Bさんは幼いころから両親に「好きに生きていいよ」といわれて育った。

 

Bさんは成績も平均、運動神経もずば抜けて良いわけではないが特に悪いというわけではない。特別モテるというわけでもなく、これといった趣味もない。

 

また、Bさんの家庭は特別裕福というわけではないにしてもBさんが大学進学・下宿をするくらいの余裕はある。

 

Aさんにあって、Bさんに欠けている物が僕の表現したい「世界との引っ掛かり」だ。

 

 Bさんが今後進路選択をする際に、顧慮する材料は(こんな風に単純化された世界においては)偏差値であったり、家の経済状況、本人の好みとなってくる。

 

そして実際Bさんには進路を決めるほど決定的な好みはなく、できるだけ「良い学校」に行きたいというような消極的な望みしかない。

 

 そのような状況においてBさんの進路選択を決定するのに役立ちそうなものは、せいぜい偏差値か、家の経済状況だろう。

 

 Bさんの家の経済状態いかんによっては、Bさんの進路選択が大幅に制限されるのは事実だ。

 

この点に関して言うと、 この想定にあるように家がそれなりの経済力を有している場合、進路選択は依然としてBさんの意志に委ねられることになる。

 

 もちろん経済的理由のために進路選択の幅が狭まることは本人の意志を最大限尊重できなくなるという点で望ましいことではない。

 

 しかし、その一方で経済的に恵まれているがゆえに「選択を何にも制限されないことからくる葛藤」が生まれやすくなる、とう点も確かにあると思われる。

 

 今日食べるものに困る人は余計な事を考えずに目の前の事に集中するしかない。

他方、物質的に恵まれている人にとっては、今日という一日を何をして過ごそうかということが悩みの種になっているかもしれない。

 

ここで書きたかったのは、煎じ詰めればこういった物質的・時間的、その他もろもろの余裕がもたらす逆説的な葛藤、悩みのことだ。

 

そして、すぐ上の例で言うと、食べ物に困っている人にとっての「世界との引っ掛かり」は「飢え」であることはすでに了解されていることと思う。

 

結局、僕の書きたかった事は物資的・時間的余裕が逆説的に人々を不自由にする、ということだろう。

 

おそらく物質的・時間的に余裕の無い人(過去の時代の人の目には現代人は物質的に恵まれているように映るだろう)はそれらに恵まれた人の生活はより良いものとして映るだろう。

 

しかし、実際には選択の幅が広がることからくる苦しみもあるのだと思う。

 

選択肢が増えることによる逆説的な苦しみの存在を分かったうえで、自らその選択の幅を広げる努力をする、そして自分の意志で選びとっていくことは僕は素晴らしいことだと思う。

 

その一方で、あえて選択の場から身を引く、つまりこれまで正しいとされてきたこと、親・教師が良いと言っていること、自分ができそうな範囲の事に集中すること、もまた大切なことと思う。

 

要は「引っ掛かり」の存在を意識してそれを利用するのか、それとも「引っ掛かり」の無い(少ない)世界で自分で「引っ掛かり」を意図的に作るのかの違いであって、その「引っ掛かり」が人から与えられたものであっても、自分で作ったものであっても、自分でそのことが分かっているならそれで良いのだと思う。

 

だから、「それはあなたの本当にやりたいことなのですか?」みたいな文句に乗せられて自分の今やっている事を安っぽいことだなどと思う必要はないと思う。

親から言われてそれをしている場合でも、本人にその自覚があればそれでいいのだろう。

 

長くなってしまったのでこの辺りで一度締めておく。

多分僕が書いている事は広い意味でのニヒリズムと関係してくることと思われるのでそのあたりの勉強も進めたい。

卒論を書いていた頃に自分がどんなことを書いていたのか、あとで読み返した時に分かると助かる。

(メモ)

下の本にはここで書いたようなことがチラッと載っていたと思う。

後で見直すべし。

 

 

おわり

自分の知識を再構成する試み(過去の勉強内容を総点検したい)

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何で賢くなりたいのかをまず考えるべきだと思う。


このテーマは大学に入学してからかなり長い間漠然と頭の片隅にはあって、でも全くと言っていいほど整理できずにいた。

 

このままだとこのテーマについての僕の考えは非言語的な、漠然としたイメージの域をいつまでたっても抜け出すことがないので、一度無理にでも言語化してみる。

 

僕は大学に入ってしばらくした時、もしかしたら2回生(3回生のときだったか?)の時に高校までで習ったことを総点検しておきたいと思った。

 「総復習」ではなく「総点検」であることに注意。

 総復習というとすべての単元を一からやり直すこと、問題を解けるようになることが目標になるかもしれない。総復習という言葉からは、なんとなく高校までで習ったものの細かい知識を思い出すことが要求されているような感じを受けるので僕はこの言葉を選んでいない。

 

点検という言葉を使った僕の意図として、「何を習ったか、何を習っていないか」をはっきりさせたかったというものがある。

 「何を習ったか、何を習っていないか」は普通に考えれば、文科省の出している高校までのカリキュラムを参照すれば分かりそうだがそれでは意味はあまりない。

 

どうしてかと言うと、僕がこの総点検で重視しているのは「自分の言葉で説明する」ことだからだ。

 あくまで自分の現時点での理解を確かめたかったので、自分の言葉で説明することを僕は重視している。その結果として、自分はこんなことを今まで習ってきたのか、という発見があればいいなと思っている。

 

そして、高校までの知識を総点検しようとしたのだけど、結論からいうと結局これと言って何かをしたということはない。少なくとも教科書を読みなおしたり「学びなおし」というようなタイトルのついた本を読むこともほぼなかった。

 

何故、体系的に学びなおすことをしなかったのか。

理由①モチベーションが続かない。

理由②浅く広くやってもそれは高校までの勉強と同じであり、結局頭に入らないと思ったから。

 

理由①について。特に書くこともない。高校までの勉強は、目の前にテストや受験などの分かりやすい目標があったから何とかモチベーションを保てていたのだろうと少し寂しい気持ちになった。本来それくらい自分にとってどうでもいいことに膨大な時間を使っていたのか?など考えた。考えても仕方ない。

 

理由②について。体系的な学びなおしをしなかった理由の8割くらいは理由①で残りの2割くらいが②になる。高校までの勉強がイマイチ血肉化されていない理由として、自分に興味のない事柄を自分の生活に引き付けないままの形で無理やり記憶していたから、というものが考えられた。だから、漠然とではあるけど今までの勉強の仕方と同じ仕方で総点検をしても、また時がたったら忘れるし、知識という点以外でも得られる事は少ないかもしれないと思っていた。

 

そういう経緯があって、現時点での総点検の試みは日常生活を送る中で今まで習ったことを自然と思い出す機会があった時に、その事柄が自分にとってどいう意味を持っているかを少し考える、というところに落ち着きかけている。

 

例えば新聞で「円高・円安」という語句を見つけたとする。その時に僕は「たぶんこの語句は中学か高校の公民で習っている。僕はこの語句を見た時にだいたいの意味は分かる。けど、実際に自分の生活でこの言葉を使うイメージはそんなにない。それは、自分が投資だとか為替にそれほど近しい生活を送っていないからだ。じゃあ、自分が将来投資などすることがあればこの言葉は身近な言葉になるのか」みたいなことを出来れば考えるようにしている。実際にはこんなにしっかりとは考えていなけど。

 

特別意識していることは特にない。いろいろ考えると面倒くさくなってすぐやめてしまうだろうから。それでも強いて気を付けていることがあるとするなら、変にかっこつけて自分の分からない言葉を使って分かった気にならないことくらいである。

 

先ほど「自分の言葉で説明できるようになりたい」みたいなことを書いたが、結局それは自分が分かってることと分かっていないことを曖昧なままにしておきたくないという想いからきている。

 

「分からない」ことを無くしてすべて「分かる」ことはできないし、幸福になるためには別に必要なことではないかもしれない。でも自分が何を「分かっていて」何を「分かっていない」かを把握しておくことはいろいろなことを考える上で大事になってくると思う。

 

分かっていないことが何なのかをだいたい把握できていれば、それを学ぼうと思えるかもしれないし、費用対効果に照らして諦めようと思えるかもしれない。

何かでうまくいかないことがあった時、行き詰っている時に、その原因を探りやすくなるかもしれない。そして、またうまく諦められるようになるかもしれない。

 

自分が分かっていないことを自覚していないことで、何か上手くいかなかったときに、その原因を自分以外のもの(=他者)に帰すことが僕は一番みっともないことだと思っている。そしてそのような態度は周りの人も不幸にする。自分がうまくいかないことの原因を他者に帰さないためにも、自分について世界について分からないものを分からないとしっかり認識することが必要に思う。

 

 

 

 

書きそびれていたけど大事なこと

前回の記事では現状を客観的に把握する際に生じる困難とその対策について書いた。

 

izunoxxx.com

 

この記事で書いたことを反芻していて、少し内容的に固かったなと思った。

「教科書的」と言えばいいのか、筋道だてて説明することに集中しすぎて結果的に自分の本当に考えていたことから少し離れてしまった感がある。

自分のもともと持っていた感覚として、人が自分のことを客観的に分析できないのは、もっと「人間臭い」理由が根底にある。

前の記事で書いたことを全面的に撤回する気はさらさらなく、あそこに書かれていることも僕の考えている事ではあるが、大事な部分を抜かして書いてしまったなという感が否めないので、長い補足としてこの記事を書く。

 

前回の記事では、人が現状を客観的に分析することに際して困難を感じるのは、簡単に言えば、その作業が面白くないからである、という結論を出した。そして作業を無理にでも楽しむ工夫を見つけることをその一応の対策とした。

「現状分析から遠のいてしまう理由はその行為が面白くないからである」というテーゼは間違っていないけど大事なことが抜けているなと感じる。

「面白くない」には複数の意味がある。前回の記事で僕は「面白くない」を「退屈だ」の意味で使っていた。これはいわば「+(プラス)が無いことからくる面白くなさ」と言える。「面白くない」のもう一つの意味として「-(マイナス)があることからくる面白くなさ」もある。これについては後で見る。

 

まず一つ目の面白くなさについて。これは目に見える結果、自分の成長を確認させてくれるものがすぐに手に入れられない、という意味で「面白くない」。前回の記事で取り上げていたのはこちらの意味での「面白くなさ」だ。

この意味での面白くなさがあるだけで人は自然とその行為から遠ざかっていくことだろう。

でも、遠い未来であったとしても何かしらの利益を得られると思うことさえできれば、人はその面白くなさを我慢して現状把握に勤しむのかもしれない。+がすぐに目に見えて現れなかったとしても、我慢強く取り組めばたいていの場合はそれなりの結果が出る、はずだから。

 

だから、現状の分析を怠ってしまうのは「+(プラス)が無いことからくる面白さ」からだけではないと言える。

そして、こちらの方がより本質的だと思うのだが、人を現状分析から遠ざけているのは面白くなさのもう一つの側面である「-(マイナス)があることからくる面白くなさ」だろう。

「-がある」というのはすごくボンヤリとした言い方だが、ここでのマイナスは主に現状を認識することによる、落胆・恥ずかしさ・悔しさの類だ。

もっと分かりやすく言うと「理想と現実のギャップを感じることからくる精神的苦痛」になる。

 

「何で頭では分かっているのに現状改善のために動き出せないのだろう」。

こういう問いに向き合っていく中で、「+が得られないから」という「もともとなかったものを得られなかったことからくる悔しさ」以上の何かが人を当該行為から遠ざけているのだろうという仮説に至った。そしてその何かは、自分の経験からして「現状を分析することでいかに今の自分が理想からかけ離れたところにいるのかを認識することによる苦痛」であると思われる。

 

どれだけ自己啓発系のハウツーが世の中に出回っても、最終的に「やるかやらないか」のどちらに一歩を踏み出すかは常に各人にかかっている。

そして、その「やるかやらないか」は放っておいたら50%の確率で「やる」、50%の確率で「やらない」になるような類の2択ではない。

放っておいたら基本的に「やらない」の方を無意識に選んでしまう設定になっている。

少なくとも僕のここまでの考えではそうだ。

そしてこの記事で書いたことは、なぜ「やらない」を無意識的に選んでしまうのか、に対しての解答になっている。

「現状の把握」に関して言えるかもしれない事を、行為全般に敷衍するのは妥当だろうか。僕の個人的な見解を書いておくと、たいていの行為に関して「現状の把握」について言える心の動きの特性と同じことが言えるはずだ。

「わざわざ何かをして失敗するくらいならしない方が良い」「すぐに結果が出ないかもしれないし、もしかしたらずっと結果が出ないかもしれないなら最初からしない方が良い」これらはおよそなんにでも当てはまるだろう。

特に「現状の把握」に関しては、そこで得られた認識が「こうありたい自分像」をダイレクトに苦激してくるから厄介だ、ということだ。

 

この記事を書いて少しは頭の中がクリアになった感はある。

だからといって、「やるやらない」の2択から「やる」を選びとるのが今までより楽になるとかはないと思う。

ただ、この記事を書くことすらも「現状の把握」ということで、一歩前に進めたと自分では思っている。

 

おわり

 

 

 

 

 

プリズナートレーニングに喰らいつく(メニュー・頻度・効果・モチベーション等)

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「鍛え抜く」っていう言葉が好き

僕はここまでの記事で頭の働かせ方ばかりを取り上げているのでそろそろ体の使い方、鍛え方についての記事も出しておく。


僕がしている筋トレは『プリズナートレーニング』と呼ばれるものだ。

 

 

リズナートレーニングとは、その名の通り「囚人のための筋トレ」だ。

 

著者のポール・ウェイドさんは元囚人で、刑務所にいた時に身を守るために自重筋トレの研究・実践に取り組んだ方だ。自重筋トレと言うのは、バーベルやマシンなどの器具を使わずに自分の体だけで行う筋トレのことだ。*1ポールさんのいた刑務所はアメリカの刑務所の中でも最も”タフな”刑務所だったらしく、そこで生き残るために日々心身を鍛える必要があったらしい。

 

 そんな環境でポールさんら囚人の方たちが体を鍛えるために行っていたのが、コンビクト・コンディショニング("囚人のコンディショニング技術”)だ。

 

僕はこの「コンビクト・コンディショニング」という名前に込められている「塀の中で生き残るためには強くなるしかない」という考えが好きだ。

 

大学に入って以降、なんだかんだ「監獄」や「囚人」と名前がついている本を読むことがあった。そういう本を好んで読んでいた。

例えばこれとか(この本の「死の家」というのはシベリアの「監獄」もしくは「牢獄」を意味すると思われる)

 

なぜか。それは「監獄」や「囚人」といった言葉にどこかしら力強さを感じていたからだと思う(捕まるのはまっぴらごめんです。犯罪は犯さない)。

 

身の危険をほとんど感じることのない現代に生きる僕にとって、非日常過ぎないレベルで生と死の強烈なせめぎあいを感じられるのがこういった類の本だったのだろうと思う。

 

とまあ、そんな感じで僕はこの筋トレに惹かれたわけで、かれこれこの筋トレを続けて2年半ほど経つ。

 

夜9~10時(それより遅い時間の時もある)からだいたい20分ほどジョギングをして公園に行き、そこで自重筋トレを20分ほどして、また20分ほどジョギングして帰ってくる、というのを2~3日に一回ペースでしている。

 

別に朝一で走ったり、夕方走ったりもできなくはないのだが、それだと一日に2回風呂に入らないといけなかったり、夕方走る場合は生活リズムをそれ仕様にするのが面倒ではある。

 

そして何より夜にトレーニングをすると、夜の公園で一人静かに体と向き合っているという、コンビクト・コンディショニングの精神が感じられて良いのだ。

 

こんな感じで鍛えてはきたが、筋肥大に関して言うとそこまで大きくはなっていない。

 

『プリズナートレーニング』は腕立て伏せ・腹筋・スクワット・ブリッジ・逆立ち・懸垂という6つのパートに分かれており、それぞれに10のステップがある。

 

僕は腕立て伏せのパートの6ステップ目まで到達したけど、見た感じ腕が特別ゴツクなったという感じはしない。

 

腹筋も特に大きくなったという感じはない。しかし以前に比べて引き締まった感はあって、いわいるシックスパックも夢ではないな、という感触がある。

 

また、いわいる体幹が強くなったことも実感している。

 

もともと僕は体幹が弱い方で、腕立て伏せの時とかも体を一直線に保てなかったり、ランニング時に体の軸がぶれている印象があった。

 

それが、この2年半ほどのトレーニングにより、多少は体に「軸」を感じられるようになりつつある。

 

具体的には腕立て伏せをする際に体をまっすぐ固定できるようになったことや、ランニング時にブレが軽減されたように感じている。

 

「使える筋肉」「使えない筋肉」という区別にどれだけ意味と信憑性があるのか知らないけど、僕はこの「使える筋肉」を醸成している感が割と好きなので、なかなか筋肉が大きくならなくてもそこまでイライラしたりはしない。

 

その一方で、見た目のゴツさも強さの内だと最近思い始めてきたので、筋肥大にももう少しコミットしていきたい。

 

強くなるための食生活と精神統一についてはまた別の記事で書こうと思う。

 

おわり

 

 

 

 

*1:ボール・鉄棒・机など、筋トレのために作られたものでない道具を自重筋トレでは用いることがある