IQ研究所

人生の教科書

不満足な豚

 

最近いろいろと活動するための気力が湧かない。

 

 

izunox.hatenablog.com

 


この記事でも少し触れていた(はず)だが、大学に入って以降何もやる気が起きない期間が頻繁にある。

 

かれこれ3.4年ほど(学生特有の?)無気力状態と付き合ってきた。

そしてその経験からモチベーションの死はその人の死に直結すると考えるに至った。

 

僕らが生きている時代は「モチベーションの時代」だと僕は勝手に思っている。

 

教育の機会や社会進出の機会に十分恵まれているとは言えない人がいる一方で、ひと昔前に比べれば多くの人にそれなりに「成功」のチャンスが行きわたっている、とされているのが今の日本だ。

 

だからこそ、最低限の生活の保障以上の不平等の是正はなされない。

アカデミックな場でもない限り、成功者と敗残者の格差はの原因は敗残者の自己責任として片づけられることがほとんど。

 

負ける人間には「やる気」が欠けている。

環境は整っているのだから、「モチベーション」を上げてことに当たれ。

 

令和の日本ではこんな言説を毎日のように耳にし、目にする。

僕は正直これらの言葉に反感を持って生きてきた。

 

何故かと言うと僕自身にモチベーションが欠けていたから。

 

特に何をしたいということもなく、なんとなく大学に入学し、なんとなく大学生活を送っている自分としては、「モチベーションの欠如=負け」という図式は認めたくないものだった。

 

だが、「モチベーションの欠如=負け」図式への反抗を続けたこの3~4年間で僕が得たものを振り返る時、この図式が相当程度現実の世界を写し取ったものであることを認めざるを得ない。

 

「「モチベーションの欠如=負け」図式への反抗」がどういうことを意味しているのかと思う人もいるだろう。

 

僕自身もこれだと定義できていないが、おおむね「モチベーションがあること=善」みたいなものへの反発と捉えてもらえばいい。

 

別にやる気なく生きていても良いじゃないか、高いモチベーションが湧かなくてもいいんじゃないか、という考え。

 

結論から言うと、さっきも書いた通り僕はこのささやかな抵抗をして得たものがほとんど無い。

大学生活で何かを得たとすれば、その時は無理をしていたかどうかはともかく、自分から何かをしようと世の中に働きかけていた時であったと事と言える。

 

モチベーションが湧かなくても、それで自分の人生にある程度満足していればそれでいい。

 

僕の場合は、モチベーショが湧かない、かつ日常生活にまったくと言っていいほど満足できていない。常に欲求不満にあると言っていい。

 

ここには大きな問題が潜んでいる。

「モチベーションが湧かない」くせに「欲求不満」ではあるのだだ。

 

モチベーションが湧かないと言っているのだったら、その現状に満足できてもよさそうなものだが、少なくとも僕の場合は口では「何もやりたくない」と言っておきながら頭の中は常に欲求不満で支配されている。

 

この不可解な事実を前に数年間生きてきたが、僕はあることに気がついた。

自分はモチベーションが湧かないとか言っているけど、それは結局はリスクを取ってチャレンジすることを恐れているだけじゃないのか、と。

 

まあ、本音を言うとこれに気がついてはいるものの、それを認めなかったという方が正しい。

 

世間には文字通り「何もしたくなく」、それで別に欲求不満にもなっていない人は一定数いると思う。

 

僕もその一人だと信じ込もうとしていたが、どうやら僕は欲求はあるにはあるけどそれを満たす事だ出来なさそうだからその欲求をなかったことにしていたようだ。

 

彼女が欲しい→NO、美味しいものが食べたい→NO、お金持ちになりたい→NO、良い車に乗りたい→NO、、、といった具合に、僕は考えられるあらゆる欲求を否定してきた。

 

そして結果的に「何もしたくない」人間になった。

 

もう少しで終わるから僕の話に耳を傾けてほしい。

 

この世の中にあるもので、「欲しいな」「羨ましいな」と思うものはたくさんあるだろう。

 

では、それを「なぜ」欲しいかと言うと説明できる人が何人いるだろう。

 

「何もしたくない」病に罹患する手前の僕はここに目を付けた。

 

すなわち、自分が欲しいと思っている物のうち大抵のものは「何故それが欲しいのか」という問いの前に無残にも消え去っていく、ことを利用した。

 

例えば、彼女が欲しいとふと思ったとする。

 

その時僕は次の問いを自分に投げかけるわけだ。

 

「何で彼女が欲しいのか?」と。

 

冷静に考えればそんな問いに明確な答えが出せるはずがない。

 

おおかた「なんとなく」とか「人恋しい」とかだろう。

 

そして、そんな答えしか浮かばないことから僕は

 

「あ、やっぱり自分はそこまで彼女ほしくないんやな」

 

と謎の確認を自分に取っていた。地獄の自問自答である。

(あくまで「彼女が欲しい」云々は一例であることに注意)

 

そんな自問自答をことあるごとに繰り返してきた僕には、必死に頑張って獲得したいものが一つもなくなっていた。

 

獲得したいものが何もない状態、つまり「何もしたくない状態」は本来の意味でたどり着ければそれは最高の状態だろう。

 

ブッダとか偉大な哲学者たちの言うところの境地は「何もする必要がない」状態なんだろうと思うが、それは精神的に満ち足りているが故に物質的にこれ以上のものは必要ないし、当然自分もそれらを欲することがないという状態だ。

 

その意味において「何もしたくない(する必要がない」にたどり着ければ幸せだ。

 

僕もそこを目指しているはずだったけど、結果的に凄まじいまでの不満足の中にいる。

 

「満足している豚になるくらいなら、不満足なソクラテスになる」という言葉がある。

 

これは、肉体的な満足よりも精神的な満足の方がより人間的な満足の仕方であって、人間は前者にとどまることなく後者も求めるべきだということを表現した言葉だと理解している。

 

僕は、満足している豚になることを忌み嫌った結果、不満足なソクラテスにもなれずに

 

不満足な豚になっていた。

 

ほんと何なんだよって感じだ。でも気づけて良かった。

 

「何もしたくない」と考えることの危険なところとして、方向転換がしにくいことがある。

 

「何もしたくない」と思っている時、僕は少なからず自分が高尚な人になったように感じていた。

 

ガツガツしてない自分がなんだかすごい偉い人のように感じている節があったと思う。

(少し悪く書きすぎか?)

 

欲求不満があるにも関わらず、「高尚な自分」という自己イメージを捨てたくないがために「何もしたくない」人間になったいたところがある。

 

だからこそ、一度「何もしたくない」状態になると「何かをしたい」と思いにくい。

 

たとえ自分が「不満足な豚」になっていることにうすうす気が付いても、高尚な自分像を捨てたくないがために、その状態に固執することになる。

 

ここまでの書きぶりから、僕は「何もしたくない」病を克服したと思われたかもしれないが、まだ今後どうなるかは僕にもわからない。

 

現在僕がいるのは、一応自分の「症状」を言葉にすることができ始めたという段階だ。

 

人はすぐには変われない。でも着実に変えていく。

 

おわり