『感じない男』森岡正博 (ちくま文庫)

去年(2020)読んだ本。遅ればせながら感想を書く。

 

決定版 感じない男 (ちくま文庫)

決定版 感じない男 (ちくま文庫)

 

 

 僕はこの本からかなり衝撃を受けた。自分の読書体験の中での衝撃度トップ5くらいには入ってこようという本だ。

この本を読んでまずすごいと思ったのは、この本で扱われているのが「性(セクシュアリティ)」ということもそうなのだが、そのようなトピックを現役の大学教授自身の経験をもとに書いていることだ。

 

 僕の大学教授のイメージ、特に文系の教授のイメージは、まさに「文化人」というもので、良くも悪くも「教養主義的」な感じがする。

 

 講義中の雑談なんかも、学生に寄り添おうと日常的な話題をからめながら話そうとしているのは分かるが、根が真面目過ぎるというか、模範的過ぎるというか、あまり身近に感じられない話が多い気がする。

 

 昨今は「コンプラ」が声高に謳われていることもあってか、彼らの話はどこか人間味が書けているように思う。

 

 教授様の話に一学生が文句を言う気はさらさらないのだが、正直なところがそうなのだ。

 

 その点、この本では、著者の人間味、どころかセクシュアリティまでが語られている。僕は正直、教授からはこういった語りを聴きたいんだ。

 

 射精についての森岡氏の話が特に面白かった。マスターベーションについて、友人と話すことなどほとんどなく、各人がその行為について本当のところどう思っているのかなど知るよしもない。

 

 その点、森岡氏は自身の自慰行為について、充実感・快感から虚脱感・空虚感・敗北感へと転落していくプロセスである(p. 41)と述べられているが、僕もこの表現に納得した。

 

 また、射精後の感覚については次のような記述がある。

 

  射精のあとは、性的なことからはとうぶん目をそらしていたい気分なのだが、  

  日時がたってくると、また性欲が湧いてきて同じことをしてしまう。(p. 41)

 

まさにそうだ、と思う男性読者も多いことだろうと思う。僕もこの記述には大きくうなずいた。

 

  次に僕があまり共感できなかった点について。

 

 射精自体の快感の小ささと、この引用箇所で示したような「射精したあとで、一気に興奮が醒め、全身が脱力し、暗く空虚な気持ちに襲われる」ことの二つを指して、森岡氏は「男の不感症」と呼んでいる(p. 39)。

 

 僕はこの感覚がイマイチわからないなと思った。前述のとおり、射精後に虚無感・虚脱感があるということには100%同意するのだが、そのことを「男の不感症」と呼ぶのはなんとなく違和感がある。

 

 多分その違和感の根本にあるのは、「不感症」が「男の」と限定されている点だと思う。

 

 森岡氏は、「男の不感症」を患っている男、つまりほとんどすべての男性を「感じない男」と呼び、次のように語る。

 

  話を戻せば、「感じない男」の心のそこにあるのは、「敗北感」であると私は思

  う。女が感じるような快感を、けっして味わうことができないという、どうにもな

  らない敗北感だ。(p. 45)

 

 僕はここで言われている「敗北感」を感じたことが無い。別に意地を張っているわけではなく、この本を読むまでそのように感じる人がいるとも思っていなかった。

 

 僕はさっき書いたように、男が性体験のあと虚脱感に襲われることは認める。しかし、その一方で女性は男性の何倍も良い想いをしているかと言うとそれは分からないのではと思う。

 

 たしかに、女性には男性が感じているような虚脱感はないのかもしれない。しかし、そもそも「虚脱」できるほどに「高まる」ことを、多くの女性ができていないかもしれないじゃないか、と僕は思った。

 

 正直詳しいことは分からないが、男性は誰でもある程度簡単に小さな快感を得られて、事後に虚脱感がある、女性は、一部の人が大きな快感を得られて、事後に虚脱感もない、というのが実情な気がする(生々しい話になってしまった)。

 

 詳細は分からないが、とりあえず男だけが性の喜びから疎外されている、というのは僕は納得できなかった。

 

 この本を読んで僕は、教授という社会的身分の高い職業の人が、このように、自身の性体験を赤裸々に語ること自体に感動すら覚えた。

 

 社会的に影響力のある人間は、たいてい綺麗ごとを言ったり事なかれ主義的になるものだと思っていたが、大学教授でありながら、人間の醜い部分をあくまで自分のこととして語ろうとする人も中にはいるんだと驚かされた。

 

 人の(ある意味)醜い部分、例えばセクシュアリティなどについて、「人とはこういうものですよ」と一般的に、もしくは「一歩引いた地点」から記述することは、(もちろん難しいのだけど)身を切るようなキツさは無いと思う。

 

 科学的、もしくは学問的な記述は、「私」をカッコに入れてしまえるから、つまり、「一歩引いた地点」から「私のことは置いておいて」書くことができるから、上述にような「キツさ」はない。

 

 もちろんそういった方法論は普遍性という観点からは絶対必要だろう。でも、その方法論だけではどり付けない、見えてこない分野があるんじゃないだろうか、と最近思う。

 

おわり