死後の世界での授業

予備校の自習室までの自転車。

普通に漕いでも30分かかり、ゆっくり漕ぐと50分近くかかる。

行きしは40分、帰りは50分かそれ以上かかっている。

スマホを見たり読書もできないとなると、自然といろいろと考えてしまう。

 

今日の帰り道では、死後の世界について考えた。

死後の世界で、人は自分が生まれてきた意味含め、この世界が存在している意味など全部教えてもらえるのだろうか。

死人は皆等しく、大学教授だろうがプロサッカー選手だろうが、大統領だろうが、男でも女でも、貧しい国の人も、富める国の人も、聖者も、悪人も。

皆、「答え合わせ」もしくは「(この世界の真理についての)授業」を受けさせてもらえるのだろうか。

大学教授や一部の研究者みたいな頭の良い人や、一部のお金持ちだけでなく、特別頭の良いわけでも、お金持ちでもない人にも「授業」を受ける機会が設けられていると嬉しい。

誰かは受けられて誰かは受けられないというのは、この世界での教育の機会均等よりも重い意味をもつ。

そこで教わるのは「世界の真理」なんだから。

 

別に、最悪「授業」はなくてもいい。

だれか「恵まれた人だけ」が真理に預かるというのでなければ。

皆等しく、世界について分からないまま死んでいく。

それでいい。それは、ある種の救いだ。この世界(今世というとスピリチュアル感がすごいけど、その今世)では、不平等はどうしようもなくはびこっている。

それはどうしようもないことだから、死んだ後くらいは皆平等にあってほしい。

 

繰り返しになっているかもしれないが、今の気持ち的には「授業」はあってほしい。

皆、等しく「授業」を受けられるならそれは救いになり得る。

 

おわり