「~なりに頑張っている」のは本当は素晴らしい。①

 

基本的に僕は何らかの価値評価をすることを嫌う。価値は基本的には相対的なもの、趣味の領域の話だと思っているから。それでもたまに、これはまあ良いと言っていいよなと思うことがある。

 

大抵の人は、自分が裏で「アイツはアイツなりに頑張っている」と言われるのを快く思わないと思う。この「~なりに」にはいろんな言葉を代入できる。例えば「アマチュア」とか。「彼はアマチュアなりに頑張っている」と言う時、プロではない彼がアマチュアの範囲内ではまあま健闘している、というニュアンスが含まれている。

他には、「足りない」を入れて「彼女は足りないなりに努力している」のようなセンテンス。発話者の傲慢さは置いておいて、このセンテンスからは先ほどのアマチュアの彼同様、高水準ではないものの、その人の出来る範囲で頑張っている、ストラッグルしているというニュアンスがある。

 

「君は君なりに頑張っている」と面と向かって言われても、「あの人はあの人なりに頑張っている」と陰で言われても、僕たちは、嬉しくはないもしくは少し不快にが感じてしまうだろう。それはその言葉に「(自分の頑張りが)ベストではない」ことが含意されているからだと思う。

 

何の制限もなく、つまり「~なりに」を取っ払って、「~は頑張っている」と言う時、その言葉で「誰と比べてもトップになるくらい頑張っている」を意味することも可能だと思う。僕たちが普段使っている「頑張っている」には大抵「~なりに」が暗に含まれており、純粋な形での「~さんは(誰と比べても引けを取らないくらい)頑張っている」はなかなかお目に掛かれないが、僕たちは本来は、「あなたは(誰と比べても引けを取らないくい)頑張っている」という承認を欲しがっているのだと思う。

だから、「君なりに」と言われると、かすかに残っていた「誰と比べても」の可能性が打ち砕かれてしまい、多少の苦々しさ・口惜しさを感じるのだろう。

 

「誰と比べてもトップになるくらい頑張る」とは一体どんなことか。それはつまり、いわゆる「プロフェッショナル」な取り組みに他ならない。ある分野においてトップクラスであるからプロであり、プロであるならトップクラスの「頑張り」が要求される。

そして、そうだとすると、(もし自分がある分野のプロフェッショナルでないとするなら)僕たちは常に「~なりに頑張る」ことの呪縛から逃れることはできないことになる。

 

ごく当たり前のことを書いているつもりだが、真意をうまく伝えるためにここでひとつ例を。例えば、テニス部の秋元さんは熱心に部活に取り組んでいる。秋元さんはプロではないが、それでの県大会に出場し優勝を狙える位の実力の持ち主だ。

こういった状況においても、日常的な言葉遣いとは離れるかもしれないが、僕たちは秋元さんのテニスへの取り組みに対して「秋元なりに頑張っている」と言うことができる(普通は県大会で優勝を狙える人に対して「~なりに頑張っている」などとは言わないだろう。どこか失礼な感じがするから。なぜ失礼に感じるかは上に書いた)。

 

なぜ「秋元なりに頑張っている」と言えるのか。それは単に、彼女は理論上はもっと頑張ることができるはずだからだ。(理想を言うならば)彼女はまず「プロになるんだ」という風に意識を変えるべきだし、昨日3時間練習したのなら今日は4時間練習すべきだし、その他テニスが上達するためにできることはすべてすべきだ、ということになる。彼女が「もっともっと」と自分に対して要求することを止めることができるのは、彼女がプロになった場合だけである。もっと言うと、プロになったとしても世界ランク1位以外の選手は「より良く」する余地が常にあるので、世界ランク1位以外の選手は自分自身に「もっともっと」と要求することはやめられず、人から「あなたなりには頑張っている」と言われることを避けることはできない。

 

「~なりに頑張っている」と言われないラインを世界ランキング1位に設定しても良いし、むしろその方が努力の際限のなさを浮き彫りにできるように思う。すなわち、アマチュアはアマチュアで「アマチュアなりに頑張っている」と言われるし、プロはプロで、世界ランキング1位以外の人は「(1位ではないけど)その他大勢のプロなりに頑張っている」と言われることから逃れられない。要は、「もっとできる」の呪縛から解放される人などほとんどいないということだ。

 

ここまで、「~なりに頑張っている」という言葉が他人から掛けられているように書いてきた。しかし、より強調したいのは、僕たちがこういった言葉を自分自身に浴びせることをなかなか止めることができないということ。むしろ、人がこんなことを面と向かって言ってくることなんてほとんど無くて、たいていは自分で自分が許せていないのだ。

 

例えば、部活で野球をしているが、別にプロを目指しているわけでもないし、甲子園出場が現実的に狙える高校にいるわけでもない球児。例えば、テレビで見たプロヴァイオリニストに憧れ習い事でヴァイオリンを習い始めたが、自分自身がプロになることなど考えられないという人。例えば、なんとなく入った学部で、将来研究者を志望している同級生の隣で漫然と学生生活を送る人。

 

彼らは、「~なりに頑張る」こととベストにはなれない、なり得ない事のはざまで葛藤している、もしくは「していた」のだろう。意識的・無意識的かを別にして、自分の領分で努力することを受け入れたのだ。

 

ある人はそれを「あきらめ」と表現するかもしれない。本人も「あきらめ」とそれを呼ぶかもしれない。

 

いや、自分の話をしよう。僕も「あきらめ」と考えてしまう節がある。自分の意志で「ここまで」と線を引いていたとしても、それはやっぱりあきらめていうことと同じではないかと思っている。

 

長々と書いてきたが、その「あきらめ」と上手く付き合っていくことは実はすごく難しいのではと最近思ってきている。そういうことが書きたかった。「あきらめ」と言う時、「~なりには」と言う時、そこには、自分の基準、いわば居心地の良い場所にとどまっている、甘んじているという感じを受けていた。「あきらめ」たり「~なりに頑張る」ことは楽なことで、それを自分に許すことは甘えだみたいに考えていた。

 

その認識が変わりつつある。思うに、「~なりに頑張」り続けることには、相当のエネルギーがいる。かなりの葛藤がある。自分の中で矛盾を抱えることになる。「1番にはなれない事が分かっているのに、なんで自分はこれを続けているのか」。「もっと時間とエネルギーを掛けられるはずなのになんでこんなに手を抜いてしまうのか」。そういった自責の念に駆られながら、それでも「どうせ1番にはなれないしやめちゃお」とはならない。そういう強さがあるなと思うようになった。

 

なんだろう、上手く書けないのだけど、プロになれないとか、1番にはなれないとか、そういうことを不意に意識してしまったときの「負けた感」がすごく嫌で、それを意識しない方法を探してきた。その方法としては、勝負に勝ち続けるか、勝負しないことがあると思った。現実的には勝負に勝ち続けるのは不可能に近いから、勝負しないことを選ぶようになっていたけど、それだと何も得られないなと思った。そういう実感があるから、ここに書いたようなことを思うようになった。

 

そもそも物事を勝負として捉えることが良くないとは思っている。それは分かっている。その部分は分かっているし、「勝負」という概念、観念を完全に自分の中から取り払ったとしても、どこかに「負けた」とか「失敗だった」とか「(例えばプロ)に比べて自分は劣っている」のような考えが浮かんでしまうことがよくある。結構不可避的に。皆、そんな風に思っているのだろうか。意外と多くの人が思っているのかも。

 

続く