「~なりに頑張っている」のは本当は素晴らしい。②

前回の記事では、「~なりに頑張っている」と人から言われるとき、もしくは自分自身に対してそのような評価をするとき、なぜ少なからず不快感・口惜しさがあるのかについて分析した。

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そこから、「~なりに頑張る」ことが本当はすごく難しいことであることに僕が気が付いたということを書いた。僕は、「~なりに頑張る」ことを「易きに流れる」ことのように感じていたが、実はそうでもなくてむしろすごく難しいことなのだと考えるようになった。

 

今回は、前回の話からさらに進めて、人が生きている限り本来的に「挫折」し続ける生き物だということを書いていく。

 

「挫折」という言葉からは「長年の努力の末に夢かなわず」的なニュアンスが含まれている。才能の欠如によって、夢が「ボキッ」と折れてしまうイメージ、大層なイメージがある。一般的にそのようなイメージを持たれている言葉だろう。

 

でも、ここでの「挫折」はもっと一般的に、願いがかなわないこと、欲求が満たされないこと、の意味で使う。喉が渇いているのに飲み物が手に入らない。可愛い彼女が欲しいのに手に入らない。100メートルを10秒で走りたいのに走れない。空を飛べないetc.

 

現実可能性を度外視するのなら人はあらゆる願望を持つはずだ。今すぐに真水が飲みたいし、可愛い彼女が欲しいし、100メートルを5秒で走りたいし、大空を羽ばたいてみたい。

しかし、現実的にそれらの願望の多くは叶わない(水くらいは手に入るかもしれないが、ここが日本でなく、エジプトの砂漠のど真ん中であるとしたら水を手に入れるのも相当困難だ)。

 

大抵の望みが叶わないことを人は経験から学び、次第に満たせる範囲の欲求だけに意識的になる。火星に行ってみたいと昔思っていたが、今は公務員を目指している。イケメン彼氏が欲しいと思っていたが、今の彼氏で妥協している。「挫折」が見えにくくなっているだけ。「なんでも手に入る」世界(いわゆる「世界線」)から見た時の現実世界は夥しい量の「挫折」にまみれていることが分かってもらえたことと思う。

 

「挫折」と「~なりに頑張っている」がどう結びつくか。

 

ここから話が変な方向に行く、というか極端になっていくが「こうも考えられる」くらいのノリで読んでいただきたい。

 

僕が思うに、人はある意味で毎瞬間「挫折」している。人生は、夥しい量の「挫折」にまみれているというより、文字通り「挫折」の連続だ。

 

ある行為を毎秒選択し続けるということは、それはすなわち他の可能性を捨て続けるということだ。人は意識的無意識的にある行為を選択しながら、生命維持活動をし続けているが、「最もベストな選択」、つまり現実可能性を度外視したなかで最善の選択肢(例えば「過去に行く」)からは常に疎外し続けられていると言える。つまり、非現実的な空想は、文字通り、現実化はせz選択肢からは常に疎外し続けられていると言える。つまり、非現実的な空想は、現実化はせず、しかし人間はそのような空想を思考できてしまうので、毎秒(ふつうそんなことは意識しないが)そのような非現実的な可能性・選択肢から疎外され続けていると言える。

 

「現実可能性を度外視したなかでの最善の選択肢」(例えば「過去に行く」など)を持ち出さないまでも、人は、「現実的には可能だけど実際にはとても難しい選択肢」から毎秒疎外されていると言える。先ほどの例に挙げた、「100mを10秒で走る」はここに分類される。

 

「100mを10秒で走る」ことができる人は、9秒台で走りたいだろうし、9秒台で走ることができても自分よりも早く走る人が1人でもいる限り、その人はある意味で「挫折」していると言える。

 

これは別に「世界ランキング2位以下」の人だけに当てはまるのではなくて、「世界ランキング1位」の人にだって当てはまる。「最善の努力」をしていれば、(例えば100m走で)タイムをあと0.00001秒縮められたかもしれない、と言うことはどの選手についても言える。常に言える。100m走に限らず、すべての種目、仕事、日常生活のあらゆる場面で、人は(可能的な)「最善」から疎外されている。され続けている。

 

以上のことを考えてきて、「~なりに頑張る」に対してこれまで抱いていた「自分で限界を決めてその枠の中に甘んじている」というイメージが変化した。

 

思うに、誰であっても本人が意識意識しているかしていないか関わらず、上記のような意味で「挫折」は常について回るものだ。

つまり、人であれば全員が「現実可能性を度外視したなかでの最善の選択肢」(例:過去に戻る)からは疎外されているし、大多数の人が「現実的には可能だけど実際にはとても難しい選択肢」から疎外されている。

人間であれば誰しもが、少なくとも前者の意味で、毎瞬間望みが絶たれているという意味で「人は、ある意味で毎瞬間『挫折』している」ということである。

 

僕は、最近ここに書いたことに意識的になり、「今目の前にいる見ず知らずの人も、特別口に出したりはしないけど、毎秒たくましく生きてるんだな」と思うようになった。

「みんな違ってみんな良い」だとか「もともと特別なオンリーワン」だとか、別に嫌いではないけど、特別良い言葉だとも思わなかった。なんとなく綺麗ごとに聞こえるので。だって、なれるものなら「ナンバーワン」になりたいじゃん、という。全員がナンバーワンに(必然的に)なれないから、「もともと特別なんだよ~」と言い聞かしているんじゃないの、みたいな。

 

その考えが少し変化してきている、ということ。ここまでかかって書いてきたのは。

確かに全員がナンバーワンには(絶対)なれないし、その痛みは地球上から消えてなくなるときは(人類が滅亡するまで)こないだろう。僕だって、一生「~であればいいのにな」と少しは思いながら生きていくのだろう。

 

それでも、もう一方の側面にも光を当てることはしていきたい。「ナンバーワンになれやしないのに頑張っている」と捉えるときもあるかもしれないが、「~なりに頑張っている、凄いことだ」とも捉える余地があることもたまには思い出したい。

 

「~なりに頑張る」という(ほぼすべての)人間に課せられた条件の難しさを再認識し、その過酷すぎる条件のなか(本人が意識するしないにかかわらず)懸命に生きてることって、かえって素晴らしいことなんじゃない?という話でした。

 

つづく