この世界はゼロサムゲームか。もしそうだとすると自分の幸せは他人の不幸か。②

 前回の記事では、ゼロサムゲームの定義が「複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況」であることを確認した。そして、僕が考えていきたい問題が「この世界はゼロサムゲームか」というものであることも書いた。

 さらに僕がなぜこの問題を考えようと思ったのかを書いた。その中で、「競争が嫌なら公務員か窓際族にでもなればいいのか」という考えを検討することを通して、実は公務員も窓際族も間接的に「競争」には与しているため、競争から逃れることはできないと述べた。詳しくは↓の記事から。

 

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 前回の記事の最後の方で、現代社会に生きる人は「不可視の競争」に参加せざるを得ないと書いた。それはつまり、人々が競争とは意識していないものでも、実は競争の側面を有しているものがこの社会には無数にあり、人々はそれと知らずにその競争に参加しているといことである。

 

 公務員の枠を争うことも窓際族の枠を争う(?)は、もはや「不可視」でもないと思うが、現代社会(有史以来そうなのかもしれないがここでは一応現代社会としておく)には文字通り「不可視の競争」がある。

 

 例えば、遠い異国の地の農園で働いている人と、先進国に住み、彼らの作った農作物を消費する人々の間には、ある意味での競争がある。農作物を輸出することで、多少その国が潤うとか、農場で働くことができるからそこにいる人はなんとか食べていけるとか、先進国で暮らすのと後進国のそのような農場で働くのとどちらが幸福か分からないなど、あるかもしれないが、控えめに言っても「搾取」の構造は存在するように思われる。

 

 そして、先進国が後進国を「搾取」できているのは、歴史のある時点(例えば帝国時代?)にその国を植民地にしていた名残だとか、その国よりも工業化、経済の発展が早かったとか、いずれにしてもなんらかの競争が存在していて、その競争に勝ったからだと言える(競争における力関係がひっくり変えてってしまわないように先進国は気を付けているかもしれない)。

 

 そして、現代の先進国(ここでは「先進国」としているが、後進国が先進国を「搾取」する領域・分野もあるかもしれないしそのことは承知の上で話を簡単にするために一般化している)に住む人々は、その「戦果」を日々享受していると言える。この社会をグルグルと循環している富の源泉で「搾取」があるとすれば、その富を消費して生活する人は、知らず知らずのうちにその「搾取」の成果(=「戦果」)に与っていることになる。このことをもって、先進国の人間は「不可視の競争」に勝っていると言える。

 

 「不可視の競争」はもちろん国際関係に限った話ではない。

 個人と個人のあいだでも「競争」の図式はいたるところで見ることができる。

 

 以下の例は、「そのように見ること考えることも可能である」

 

 例えば、美容。ある人が二重になる整形手術をしたとする。その行為は、見た目競争(この例でいうと異性獲得競争)で少しでも順位を上げる行為であると言える。そう解釈できる。

 ある人が二重手術をしたことによる効果は波紋のように社会全体に波及していく。二重手術をした人に対しての周囲の反応(特に異性の反応をここでは想定してみると話が分かりやすい)が良くなったのなら、「私も二重手術をしたい」と思う人は増えるだろう。今まで意識もしたことのなかった人も、少しは手術のことを意識し始めるかもしれない。そして、「知人の二重手術に影響を受けた人に影響を受ける人」が出始め、以後理論的にはその行為(二重手術)が競争(異性獲得競争)にとって有用でなくなるまで、つまり、誰もが二重手術をして二重であることの価値が落ちてしまうか、もしくはそもそも二重より一重の方が美的に価値があるとされる世の中になるまでその波紋は続く。

 

 もはや「不可視」ではないが、ありふれていて普段人々が意識しない分野における競争の例をもう一つ。

 例えば、広告業界においての、「人々の可処分時間」の奪い合い。

 昨今、広告の業態は多種多様になっている。

 例えばテレビ・新聞・TwitterInstagramYouTube・さらにビルや電車・バスにポスターを貼るタイプの広告など、もはや人の視線の集まる所には絶対と言っていいほどに広告がある。

そして、それらの広告を貼る広告主は常に一つのことを考えている。

ズバリ、人々の視線をどれだけ長く自分の広告にとどめておくかだ。

 テレビでもYouTubeでも、広告主(ここではテレビやYouTubeにお金を出して自分の広告をそのプラットフォームに載せてもらっている人達を指す)が一番に考えているのは、テレビやYouTubeの内容が面白いか否かではなくて、自分の広告をどれだけ多くの人がどれだけ長い時間見てくれるかだ。

つまり、広告業界では、人々の視線、言い換えると「何かを見る時間」を奪い合う競争が日夜繰り広げられていると言える。

 

 これからますます高度な技術が出現して、人々の労働時間が減り(自由時間が増え)、先ほど挙げたTwitterYouTube・テレビ・新聞などに使える時間がこれまで以上に増えたとしても、それでもその時間の総和は有限だ。

仮に、人々が仕事中であったとしても、彼らの「視線を盗む」ことを広告業界がして見せたとしても、それでも人一人の可処分時間は24時間を超えることは無い。

 つまりは、(最大値で)「世界の総人口×24(時間)」を全広告業界が取り合っている。

 そしてさらに、広告業界は「人々の時間・資金を取り合う」という意味においては、他のありとあらゆる業界と競合である(一部からは恩恵を受けてもいるだろうが)ともいえる。

 

 このように、競争は、個人レベル・企業レベル・国レベルと、どのレベルにも存在していると言えることが分かる。

 そして、さらにミクロな視点で物事を見ても、逆にマクロな視点で物事を見ても、そこには競争と呼べるものが存在している。

 

 ミクロな視点で言うと、例えば人体とウイルス、細菌との闘いがある。

人の体には、外から来た有害なウイルスや細菌を排除するための免疫システムが備わっている。そのシステムが犯されたとき、人は病気になる。人は普段「あー、今、キラーT細胞が闘ってるわ~」などと考えたりしない。考えはしないが、生理学的反応を介して、無意識のレベルで侵入者を打ち負かし続けていると言える。

 

 この例は一人の人間vsウイルス・細菌であるが、この現象をマクロな視点で人類vsウイルス・細菌として見ることもできる。これが先ほど述べた「よりマクロな視点で物事を見た」場合の競争に該当する。

 

 コロナウイルスが蔓延するずっと前から、人類はウイルス・細菌との闘いを続けてきた。ウイルスや細菌に、「人類を滅ぼす」という意志は無いだろうが、実際に起こっていること、起こってきたことは、人類とウイルス・細菌との生存競争以外の何物でもない。

 

もう少し「人類vsX」という枠組みで考えてみる。

 

 現在人類は、地球上の動物(深海・ジャングルを除く)をほぼ完全に支配している。もしくは支配しようと思えばそうできる状態にある。

では、地球の生命体とはどのような関係にある?

現時点では地球外生命体の生存は確認されていないようだが、潜在的な生存競争の相手が宇宙空間には無数に存在しているだろうとは考えてもよさそうである。

 

 少し話が大きくなりすぎた感が否めなくもないが、ここまでで、いかにこの世界が競争で満ち溢れているか、もっというと競争が無い「隙間」など存在しないことが分かっていただけたことと思う。

 

 人が一人いるだけで、その身体の中では無数の細胞が無数の侵入者と攻防を繰り広げている。それはどの動物であっても同じだ。

 

 次の記事では、もう一度ゼロサムゲームの定義「複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況」に立ち戻って、上で確認した事例は、ゼロサムゲームと言えるのか否か、ゼロサムゲームだとしたら何が言えるのか、もしゼロサムゲームでないとしたら何なのかを考えたい。

 

続く